政談443

【荻生徂徠『政談』】443

(承前) 昌平坂と高倉屋敷は場所が悪い。儒者たちを江戸の各所に配置して、人々が自由に好きな儒者の所に通うようにすべき。そうすれば教える側も学ぶ人も便利で気持ちが入る。学問は公儀の勤めとは違い、自分自身の事であるから、気持ちが入ることが重要である。備前岡山の新太郎少将殿は備前一国の中に三カ所も学校を建てさせられた。遠方に通うのでは学ぶ者にとって不便だからである。今、学校という場でなくとも、儒者の屋敷に幕府において稽古所を建てられ、屋敷も広くなされ、弟子も多くて書類の筆写などの御用も務められるようにして、弟子たちに御扶持なりとも支給され、今は与力たちにさせている筆写の御用も弟子たちにさせたならば、学者が扱うことだから文字も正しく、誤字脱字などの誤りも防げる。儒者のもとに書生が多く集まると、儒者も怠けてはいられず、学問の水準も維持される。儒者の屋敷の近所の御旗本へも、望み次第に弟子たちを講義に赴かせるようにし、近所であれば御旗本の方からも通いやすいことである。


[解説]今も山村など、学校の数が少ない地域では小学生でも数キロ、あるいはそれ以上の道のりを通学する。特例として車での通学や、地域のコミュニティバスなどを使うことが認められている所もあるが、刻苦勉励の精神から、足腰の鍛錬になるとして文武両道の校訓ともあわせて、遠距離を歩かせることを当然のように考えている向きも少なくない。しかし、光陰矢の如し、歩く時間が長くなれば、自学自習の時間が減る。疲れて登校すると勉強に身が入らない。ものには限度というものがある。適度な運動は必要だが、児童生徒によって通学時間に差がありすぎるのは公平なこととはいえない。高校生ともなると、学校を選べるものの、学校ごとにレベルがあり、近くの高校が自分のレベルに合致し、教育内容や校風も合っていればいいが、そうでない場合、乗物を使って遠方にある学校に通うことになる。都会のように公共交通機関が発達し、電車やバスが頻繁に来る所ならまだしも、1時間に朝夕が2本程度、日中は2~3時間に1本で、通過する優等列車のほうが多いというのでは、ダイヤに合ったスケジュール、生活を強いられ、どうしても無駄な時間ができてしまう。乗り遅れたが最後、次の列車は2時間後というのでは、なにがなんでもそれに乗るため、学校の図書室で調べものでもしたいと思っても、時間ばかり気になって身が入らない。そういう生徒についてはバイク通学を認めるところも増えたが、天候に左右されやすく、危険も多くなる。徂徠が言いたいことは現代でも通用する。気持ちよく学ぶためには師が選べて、しかもできるだけ近場に学校があること。行政はそのために最大限手当をすべきであるということ。池田侯は岡山に3つ学校を建てた。広い岡山にたった3侯と現代人なら思うが、当時、藩校は1校が普通で、ない所もあった。3里、5里の道のりを歩くべく、夜明け前に家を出て、帰宅は日没という状態だったから、これでは家へは寝るためだけに帰るようなもの。昔の人は健脚だったが、道は悪いし、のどが渇いたからといって自販機があるわけでもない。もちろん山道に店もない。それでもよく歩いたが、尊徳二宮金次郎のように薪を背負いつつ書を読みながら歩くというのは、距離が近い場合のみ可能で、普通はそんなことはしないし、そもそも行儀が悪いこととされた。書物はきちんと座って、背筋を正して読むもの、としつけられた。学問武術は、できるだけ多くの時間をかけ、しかも気持ちよくやれるほうがよい。どんな状態でも熱中できるというのは、むしろ人としての情のない者である。

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