政談441
【荻生徂徠『政談』】441
●学問の事
学問の事について。上様の御世話により、昌平坂・高倉屋敷で儒者による講義が行われているが、御旗本の武士は聴講する人が絶えていない有様。町人・町医者・大名の家臣らが聴講しているが、この人らのためにばかり御世話されるのはいかがなことであろうか。結局、やり方がよくないために、上様の思召しに相違した状態となるように思われる。
[解説]吉宗は享保2年(1717)、林大学頭信篤に命じて昌平坂(湯島)の聖堂(学問所)で毎日開講させ、丁(偶数)の日は幕臣を対象とし、半(奇数)の日は庶民にまで拡大して聴講を認めた。4年(1719)からは八重洲河岸の高倉屋敷(将軍宣下の大礼などがある時、京都から礼服指導のため江戸に下向した高倉家が宿泊するための屋敷。大礼はたまにしか行われないため、ほとんど空き家状態)を校舎として、林家以外の室鳩巣(むろきゅうそう)らの儒者に講義させ、身分を問わず聴講を許した。身分を問わず高度な学問を認めたのは大いなる進歩、発展であったが、本来は高等文官養成の東大の前身たる昌平坂は幕臣(つまり高等文官)教育の場であったにもかかわらず、義務ではなかったために幕臣は寄り付かず、学問熱心な大名の家臣や町人らがおしかけた。これはこれで学問・教養のすそ野が広がるわけで我が国の知的水準が上昇してよいことであるが、幕臣の学問嫌いは当時有名となっていたほどで、徂徠はこれを憂慮し、学問教育について特に多くの字数を費やして有り方について述べてゆく。
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