【諸乗法数】5-85

【諸乗法数】5-85

五僧差別 

無恥僧・不修戒行 

瘂羊(佯)僧・不通教法

用黨僧・結構營務 

世俗僧・作非法事 

勝義僧・學無學人


註 いわゆる売僧(まいす)の五分類。

無恥僧 戒律を守らぬ僧

瘂羊僧 教学を理解していない僧 

用党僧 営利に走る僧 

世俗僧 頼まれれば拝む僧 

勝義僧 無学だが学がある風を装って人を欺く僧


人は外見で判断したり信じたりする。僧侶や神職は世俗の姿かたちとは違うことから、見た目でその雰囲気に俗人は飲まれてしまう。僧侶にしろ神職にしろ、ごく一部とはいえそういった俗人の心理を利用して、宗教を売り物にする人がいる。佛教でいうと、もともと葬儀といったものは特になく、時代や地域の中でその土地の風俗習慣、さらには他の宗教の習俗を取り入れながら現在のようなものになった。弔いそのものは厳かにして残された者たちの心を鎮めるために大切なものでも、祭壇はどうの、式次第はこうの、香典は、墓地は、といったことがすべて金銭の多寡によりランクがあるに至っては、本来平等であるはずの佛教も金次第かと不信感を持たれるのが現状。また、僧侶へのお布施の額により読経が途中省略されるのではといったことまで言われ出している。現在は多くの僧侶が動画で発信し、こういった世間の疑問に答えておられるが、「葬儀のお布施はまったくのお気持ちであり、極端な話、10円や100円でもお坊さんは決してお経の省略はしません」と言われると、逆にそんな失礼な少額が出せるはずはない、一度限りのことだし、無理してまとまった額を出さねばならない、と思ってしまうのが人情。しかし、御坊もさるもので、「あくまで身の丈に合った額でかまいません。一度限りのことだからと無理してしまい、残された人たちが暮らせなくなっては元も子もありませんから」と言われると、さようでございますか、ではお言葉に甘えて、とはならない。やはり世間の相場、さらには葬儀社の提示する額に従ってしまう。葬儀や回向は僧侶本来の仕事ではない。僧侶はあくまで修行をする身。しかし、世間の要請により葬儀や回向を行うようになり、これが常態化した。そのため「これは営利目的ではない」と説明される御坊も少なくないが、「頼まれれば拝む」行為もまた売僧とされており、本来は僧侶側で拒否すべきことである。檀家制度がわずかなものとなった今、お寺とのかかわりはまさに葬儀だけといってもよいぐらい疎遠な関係となった。昔のように身近な存在で、色々と相談に乗ってくれたり、有難い教えをかみ砕いて教え諭してもらう存在であれば、たとえ粗末なものでも抵抗なく付け届けもできる一方、葬儀も高額になることなく行えたが、今は葬儀社が仲介しないと成り立たないぐらい疎遠となった。そのためいろいろ物入りになってしまうが、この関係が続けば、寺院の衰退はさらに進むだろうし、直葬、墳墓なしといった傾向も強まると思われる。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。