政談422
【荻生徂徠『政談』】422
●吉利支丹類族および書籍の事
吉利支丹(キリシタン)宗門は、今は日本国中にあってはならないものである。が、今類族を探し出すのは困難であろう。御旗本に列する人たちについては類族の詮議はなされていない。大伴宗麟・竹中筑後守の子孫などがいるが、君子の沢(たく=めぐみ)も小人(しょうじん)の沢も、五代の子孫ともなると無くなってしまうものであることから、最初に改宗した者から五代も経てば、子孫類族は平人と変わらないはずである。
[語釈]●大伴宗麟 名は義鎮(よししげ)。1550-1587。豊後国臼杵(うすき)城主。キリシタン大名。受洗名フランシスコ。子孫は高家(こうけ)として幕府に仕えた。 ●竹中筑後守 竹中重信かと言われるが不詳。重信の兄重義は長崎奉行で、苛烈を極めるキリシタン弾圧を行った。我が国史上類を見ない残虐な拷問を考案、多くの信者を責め殺した。のち、密貿易に協力、朱印を勝手に発行するなどの不正が発覚し、切腹。連座して嫡子も切腹、一族は隠岐に流刑。竹中氏は改易・廃絶となった。キリシタンの撲滅は幕府の方針ではあったが、竹中は当時においても「やり過ぎだ」という批判の声があったようで、転ばない(改宗しない)限り処刑もやむなしという時代の認識があったとはいえ、そこまで厳しくやった者が裏で不正を働いていたとなれば、幕府の威信にも関わり、為政者としての武士に対する畏敬の念を高める必要からも、敢て一族に対するみせしめの厳しい対応をとったという説もある。徂徠が言わんとしたのは、こういう酷い者(小人)を出した家でも、五代も経てば子孫はおとなしい常人となるということ。
0コメント