1925年12月12日
1925年12月12日 大正14年
【内 閣】
加藤高明改造内閣
総理 加藤高明/外務 幣原喜重郎/内務 若槻礼次郎/大蔵 濱口雄幸/陸軍 宇垣一成/海軍 財部彪/司法 江木翼/文部 岡田良平/農林 早速整爾/商工 片岡直温 /逓信 安達謙藏/鉄道 仙石貢/内閣書記官長 江木翼/法制局長官 塚本清治
【元 老】
西園寺公望
【宮中主要官】
内大臣 平田東助/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 浜尾新/枢密院副議長 一木喜徳郎
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 白川義則/軍務局長 畑英太郎/参謀総長 河合操/参謀次長 武藤信義/教育総監 大庭二郎
[海 軍]
海軍次官 岡田啓介/軍令部総長 山下源太郎
【植民地高官】
朝鮮総督 斎藤実/台湾総督 内田嘉吉/関東長官 児玉秀雄/樺太庁長官 永井金次部/南洋庁長官 横田郷助
【東 京】
府知事 宇佐美勝夫/市長 中村是公
11月以来ピストルを手に12件の強盗を働き3人を殺害して逃走中だった「ピス健」森上健次こと大西性次郎(39)が東京で逮捕。
1925(大正14)年12月12日早朝、神戸市内の小料理屋に潜伏していた射殺魔「ピス健」こと大西性次郎(39)は兵庫県警の警察隊に踏み込まれて逮捕された。この時、大西は女装して蒲団に包まって寝ていたが、警官隊が踏み込むと、やおら起き出し拳銃で反撃しようとしたが、間一髪のところで警察隊が取り押さえたのだった。日本国内を震撼させた凶悪射殺魔の逮捕の瞬間だった。1925(大正14)年11月9日4:00頃、東京・荏原郡品川(現・東京・品川区)の小学校校長宅に大西が侵入。大西は就寝中の校長を起こし拳銃を突きつけて「金をだせ」と脅迫した。校長はこれを拒否すると、大西は突然校長に向かって拳銃を発射した。すると、隣室で寝ていた校長の書生で教諭の幸田幸吉(31)、大西に飛びつき取っ組み合いになった。だが、大西は、幸田教諭をピストルで射殺した。校長は、幸いにして蒲団が緩衝材となり一命を取り留めた。校長の通報で警視庁は捜査線を張った。すると4:44頃、品川駅派出所に国鉄職員から電話があった。それによると、駅構内で怪しい人物を発見したため呼びとめると、いきなり拳銃を撃って逃走したということだった。そこで、飯束巡査が現場に急行したが、その10分後に線路上に鋭利な刃物で心臓を刺されて絶命していた同巡査が発見された。その3日後の11月11日3:00頃、神奈川・戸塚町(現・戸塚区)の寺で短刀で脅して住職から現金を強奪した強盗事件が発生。。14日には大阪府下茨木町(現・茨木市)の飲食店で女中が拳銃で射殺され、続く16日、大阪市東淀川区の寺で拳銃強盗事件が起きた。警察が現場検証した結果、いずれも同一犯人よる犯行と断定した。唯一、女中殺しだけは2人組みの犯行だったが、既に犯行仲間の少年は逮捕されていた。この少年は、大阪中之島公園でたまたま男と知り合って犯行に加わっただけであった。この少年の供述から男の特徴が次第に明らかになった。警察は、その特徴から前科のある大西性次郎と睨んだ。そこで警察は、少年に大西の写真を見せたところ、間違いないとの証言を得た。これにより、「ピス健」は大西性次郎であることが確定した。大西は1908(明治41)年7月、満州(中国東北部)から日本の京阪地区にかけて強盗や傷害事件を十数件も重ねて逮捕され無期刑で服役していたが1923(大正12)年に恩赦減刑で仮出獄していた。服役後、少年時代に過ごしたことがある浅草を拠点に東京市内はもとより神奈川、大阪、京都、兵庫で拳銃や短刀を使って強盗を重ねた。その先々で「守神健太」という偽名を使っていたため、新聞が犯人を「ビス健」と称し連日報道した結果、全国に「ピス健」の名前が知れ渡った。警察は全国に指名手配して大西の行方を追ったが杳として手掛かりは掴めなかった。そんな中、11月20日に警視総監と高輪署長宛に大西からの犯行声明が届いた。それによると「自分は幸田教諭や飯束巡査殺しの犯人である。連日の捜査誠にご苦労でお気の毒でたえない。自分は近く上京し、もっと大きな仕事をするつもりである。警察は自分の人相書を配布して、駅の乗客は一人の調べ漏れないよう、厳重な捜査を祈る」というもので消印は岡山県倉敷局だった。また、その後に届いた声明文は満州から投函されていたが、警察は国内の警戒を緩めるための陽動作戦とみて一層の警戒態勢をとった。そのような状況下、兵庫・三宮署に「怪しい男が神戸市内の小料理屋に潜伏している」との情報があり12月12日になって「ビス健」こと大西を逮捕したのだった。大西は取調べで、東京の幸田教諭、飯束巡査殺害をはじめ、神奈川、大阪、京都、兵庫の3府2県で殺人強盗3件、強盗9件、満州で3件のピストル強盗を認めた。更に、大西は当時の加藤高明首相、若槻礼次郎内相の暗殺も計画していたことを自供した。だが、大西は思想を持つ男ではなかった。単に前科者が置かれる差別的な社会を恨んで暗殺を企てようとした実に勝手で気ままな動機であった。大西は1926(大正15)年3月に死刑を言い渡されて確定した。その法廷で大西は、「この世の恨みは悪霊となって必ず晴らしてみせる。ただの死刑などではつまらない。生きたままで解剖して、日本医学の資料にしてもらいたい」と供述した。
ドイツとソ連、通商条約調印。
ペルシャ、制憲議会を招集し、憲法を改正。レザー・ハーンを国王に推戴(在位-1941)。レザー・シャー・パーレビを称し、パーレビ王朝開始(-1979)。政治改革に着手。反宗教政策はとらず。
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