政談413
【荻生徂徠『政談』】413
●鶴取りの刑の事
禁猟の鶴を捕獲した者を磔(はりつけ)に掛けるというのは、大方、太閤秀吉あたりが始めたことであろう。年始に朝廷へ鶴を献上するならわしがあることから、厳罰に処することとしたようである。しかし、これは法外な刑である。家綱公の御生母様の一件があり、本当なら公の御代にこの刑は御停止あそばされるべきであったが、御老中らがそこまでの料簡がつかなかったのだろう。ある鳥見が江戸近辺を廻り、ある所で休憩していた時、前へ少女が来て立っていたので、鳥見が戯れに少女の腹を弓でくすぐった。すると少女が「鶴を食べたお腹はなんとも感じない、くすぐったくない」と言ったので、「いつ食べたのだ」と尋ねると、「ゆうべ食べた。残りは今、塩漬けにしてある」と言った。そこで鳥見はただちにその子の親の所へ行き、仔細を吟味して公儀へ報告、少女の親は処刑された。少女は大変な美人で、やがて御城に勤め、幕府の役人の寵愛を受けた。これが家綱公の御生母様である。増山弾正というのは、御生母様の舎弟とのこと。水戸の光圀公の時、水戸で鶴を捕獲した者があり、これが公の御耳に達したため、重き法を破った者なれば公御自身が成敗することになった。それから何度も刑の執行をお願いしたものの、何かと忙しくて延び延びになった。ある日、役人が重ねて刑の執行を求めたところ、公は「よし、斬ってやろう。その者を庭へ引き回せ」と言い、御自身刀を抜いてその者を二、三度斬る真似をするだけで、やがて刀を捨てて屋敷へ入られてしまった。その後、刑の執行を促すたびに「自分で斬る」と返事をされるばかりで延び延びになるうちに、いつの間にかその者はどこかへ逃げてしまったため、この一件はそれきり沙汰やみとなったという。
[語釈]●鳥見 とりみ。江戸幕府の職名。若年寄の支配下に属し、鳥見組頭の指揮を受けて将軍の遊猟地の巡検にあたった。
[解説]黄門水戸光圀公の逸話。秀吉の頃に鶴を捕獲した者は死刑の中でもことさら重い磔にするようになった。磔は準備に時間がかかり、それだけでも罪人の恐怖が長く続く。しかも、刑は左右両側から鎗で交互に腹などを突くが、すぐには絶命させない。何度も突いたのちに、とどめとして同時に首を突く。時代が下るとともに戦国世代もいなくなり、残虐な光景に耐えられない人ばかりとなってからは、なるべく最初の一突きで絶命させるようにし、更にはいわゆる磔柱に罪人を固定する時に、柱と首に縄を巻いて、それこそ罪人が気が付かないうちに窒息死させてしまい、死体を形式的に突くようにまでなった。それほど残虐な処刑をたかが鶴を取ったぐらいで適用するのは徂徠も忍びないと思い、光圀公の逸話を出して吉宗に進言した。光圀公も鶴ぐらいで処刑するのは忌々しく思っていたところ、鶴を取った者ありとの知らせがもたらされた。本来なら奉行の担当で、執行命令さえ出せばあとは奉行所で処刑して済んでしまうのだが、光圀公はわざわざ「重い罪であるから自分が直接処刑する」と命じた。あとの態度を見れば処刑する気がなく、むしろ赦してやろうという気持ちであったことは明白。しかし、あからさまに放免したのでは自分が法を無視したことになる。それでは為政者として示しがつかない。そこで、とりあえず斬首をすべく罪人を連れて来させたが、「エイッ」と刀を振り降ろすしぐさはするものの、うまくいかないようなしぐさをして、「今日はやめじゃ」とかなんとか言って刀を放り投げて退散してしまった。光圀公自身でやると言われている以上、役人が処刑することはできない。とりあえず牢に入れる。日が経って催促するが、いろいろ公務などで忙しいといって応じない。また催促するが、「余がじきじきに斬るによって、しばらく待て」と厳命される。結果、罪人はいつの間にか逃げてしまったというが、これは明らかに光圀公の命により立ち去らせたのである。本当に逃げたのなら脱獄の罪は重い。くまなく探し、各藩にも回状を送って指名手配する。しかし、それをまったくせず、逃げてしまったものは仕方がない、これで御仕舞い、というのだから、行政としては実にいいかげんだが、鶴ごときで極刑など馬鹿々々しいという思いが次第に広まったからこそ特に問題にもならなかったわけである。それに四代将軍生母の件もあり、もはや秀吉時代の刑をいつまでも続けることもあるまいというわけである。 [この項以上]
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