政談400
【荻生徂徠『政談』】400
(承前) 今は長く牢に入れておくことが多く、ことさら長く入れられている者は牢内の名主となっているが、これはあるまじきことである。今の奉行の裁きは、ただ懲らしめのために流罪や長期間の牢閉じ込めにして、とにかくその親類に訴訟をさせて赦免にするのが通法のようになっている。しかし、訴訟する親類がいないと、流された島や長く閉じ込められた牢内で亡くなってしまうことになる。綱吉公の御代に、ある百姓が生き物を殺した罪で捕縛された時、十三になる下女が縄を解いて逃したため、下女が牢屋(女牢)送りとなった。下女はその百姓に代々隷属していた身分のために親類がなく、よって訴訟を起こす者もなかった。二十年もの間牢に入れられていたが、ある人が罪人として入牢した。洗濯など身の回りの世話をしてくれるので、なぜそんなに長く牢に入れられているのか、子細を尋ねたので、下女は身の上について話した。やがてその人が牢から出されると、ただちに下女を訴訟したことから下女は放免となったが、不相応な罪で二十年余も牢に入れられていたことは全く知らず、七、八年前に聞いて初めて知ったことである。
[解説]当時の牢は建前上は未決囚を留置させておく所であるが、時間に追われることがなかっただけに吟味や裁決まで時間がかかった。重罪の者のほうが優先されるためにそうでない罪人は後回しとなり、時の奉行や吟味与力によっても差があって、わざと禁固刑のように長く閉じ込めておくこともよくあった。当時は罪人に対する世間の目は厳しく、悪人はどんな仕打ちを受けても当然の報いだという通念があったことから、役人もそれに沿って罪人を虐待した。これは江戸時代の負の部分として認めざるを得ない。吉宗の時からはだいぶ改善されたが、風通しが悪く、日光も射さない薄暗い牢に詰め込めるだけ詰め込み、風呂は夏場は週に2回程度、冬場は1回かそれ以下。このため罪人たちは絶えず皮膚病に冒され、ノミ、シラミも湧き放題。カネをひそかに持ってこなかった者や目明し(岡っ引き)らは牢名主と言われる最古参のボスの命令でリンチに遭った。罪人が限界まで詰め込まれると、「作を造る」と称して、これらの者や病気の者、気に食わない者を選んで殺害した。つまり、人を間引くのである。牢役人(牢奉行は石出帯刀(いしでたてわき)。不浄役人として武士でありながら武士との交際は許されない。世襲)は黙認し、牢内から「この者、病気がもとで死にました」と届け出れば検視もなくそのまま受理された。殺す方法は、よくやられたのは濡れた布を顔の上にかぶせ、窒息死させるもの。その他、急所を思いっきり蹴り上げる陰嚢蹴りや、糞を大量に食べさせても死に至るという。さすがに女牢のほうはこういうことはなかったが、なんの取り調べもなく漫然と20年以上も入れっぱなしというのは、罪人に認定されたら人として誰も見てくれないという昔の人たちの通念がそのようにさせたのである。なお、拷問は好き勝手にやっていいというものではなく、先述のように幕府では厳格に規定した。そもそも拷問というのは4種類の方法のことで、被疑者が証拠が充分揃っているのに頑として認めない場合に軽いものから順に責めたので、この方法以外は許されなかったし、拷問も許可が必要だった。藩については、多くは幕法に準じたが、苛酷な所もあった(大藩や武を重んじた藩ほど酷かった)。
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