政談395

【荻生徂徠『政談』】395

(承前) 現在に至り、死刑にははりつけ・のこぎり引き・梟首(きょうしゅ)・斬罪・切腹がある。その下に流刑がある。流刑には遠流(おんる)・中流・近流の三等がある。今は八丈島送りを遠島(えんとう)という。古はその罪人の故郷より遠近を分けて遠流・中流・近流といった。あるいは、備後・出雲・土佐・伊勢・尾張・上総(かずさ)・伊豆・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・陸奥(むつ)・出羽などへ流された例もある。大島・八丈島は江戸からみて遠流とは言えまい。大島からは船であさりなどを売りにくる人がいるほど。商人も入っており、絶海の孤島ではない。八丈島も実際は近いのだが、島代官により近いということは秘密事項となっている。ことに温暖で住み心地がよいとなれば、遠流の刑の場所としては相応しくない。


[語釈]●のこぎり引き 道端に罪人を首だけ出して体全体を地面に埋めた状態にし、その横に木製ののこぎりを置き、通行人が自由にのこぎりを使って罪人の首を一回挽くことができる、不特定多数参加型の処刑。火あぶりとともに残虐な処刑方法だが、江戸時代初期に1例あるだけで、その後は誰一人挽く者もなく、有名無実となり、次第に適用されなくなった。当然である。なお、罪人を埋めた段階で一回、首に切り込みを軽く入れて目印とした。幕法は中央政府の威信をかけたものであるだけに拷問も含めて規定通り行われ、八代吉宗以降は死刑方法も長引かせず瞬時に絶命するようにし、死刑そのものの適用も漸減した。むしろ各藩で執行された処刑や拷問の中に残虐なものがあり、水牢(罪人を胸のあたりまで水を入れた牢に入れておく。こうすると横になることも寝ることもできず、次第に低体温となり絶命する)をはじめなかなかむごいものがあった。こういったものは幕府は行わなかった。このため、そういうことが知れると、藩内で農民一揆などで捕らえられた人が江戸の白洲、つまり公儀の法廷での裁きを希望するケースが次第に増えたが、もちろん藩としては藩内のこと、苛政が知れると最悪の場合改易となるため、絶対に外には出さず、拷問で責め殺すことも少なくなかった。江戸時代の暗黒のイメージは、むしろ藩といった独立国内でのことが普遍的なことと誤解されてしまったことが大きい。 ●梟首 獄門のこと。俗に言う晒し首。斬首ののち首を三日間、人目につく所に設置した晒し台の上に置く。首は非常に重く、そのままでは置けないため、晒し台には大きな針が上に向けて植えてあり、首をこれに刺して据え付ける。斬首だけの刑よりも重い。画像は明治4年、神奈川で起きた殺人事件の犯人を処刑、梟首にしたもの(スチルフリード撮影。長崎大学付属図書館所蔵=一部着色)。こんな年まで江戸時代の刑罰が続いていたことを示す有名なもの。しゃがんでいるのは番人で、被差別階層の下の人たちがさせられた。

当時の人たちは斬首や晒し首、遺体といったものが日常的光景の延長線上にあった。この世代の中からやがて大陸へ行き、現地の人たちを斬首するようになる。慣れというのは恐ろしいものである。

過去の出来事

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