政談394

【荻生徂徠『政談』】394

(承前) 漢の文帝の時より墨・劓(ぎ)・剕(ひ)・宮の肉刑の代わりに笞杖を用いて、五百回笞打った。罪が重いと千回にも及んだ。徒罪も重いものは十年に及ぶ。この時は笞と徒・流刑とそれぞれ罪に相応した刑を適用したもので、罪の軽重によって選んだのではない。宇文周(北周)・隋・唐に至り、五刑の名を笞・杖・徒・流(る)・死と変えて、軽重によって刑を選んだ。それ以降、明朝まで踏襲されている。日本も古は唐律に従った。


[語釈]●漢の文帝 前漢第三代太宗孝文皇帝(在位前179~157)。恵帝の子とされる2人の少帝を含めて第五代皇帝とする場合もある。諱(いみな)は劉恒(りゅう こう)。高祖劉邦の四男(庶子)。基本的な政治姿勢は、高祖以来の政策を継承するもので、民力の休養と農村の活性化にあった。そのため、大規模工事は急を要するものを除き停止している。宮中で楼閣を設けようという計画が出された際にも、その経費が中流家庭10戸の資産に相当すると知って中止を命じたり、自らの陵墓を高祖や恵帝に比べて小規模なものとしている。また、文帝の在位期間は減税が数度実施され、一切の田租が免除された年もあった。法制度の改革では、斬首、去勢を除く肉刑の廃止を行っている。 生母である薄氏に対しては孝行を尽くし、自ら毒味役を務めたりと孝行な皇帝であるとして、後世二十四孝に数えられた。文帝は薄氏を尊重し、冤罪により周勃が逮捕された際に薄氏から叱責を受けると周勃の釈放を命じたり、臣下の諫言にもかかわらず計画していた匈奴との戦争を薄氏の説得により中止している。以上の人柄、事績が「孝文」と諡(おくりな)されたゆえんである。「文」は諡としては最高級で、特に徳の高い皇帝に贈られる。

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