政談385
【荻生徂徠『政談』】385
(承前) 隼人正の養母が巣鴨の屋敷より松平安芸守の築地の下屋敷へ移る際、私が家の門前を通ったが、その様子を見るに、粗末な乗物が一挺に、供の女中は皆徒跣(すあし)であった。警護の侍もつけず、長持を担ぐ棒は枝を払っただけの生木の杉だった。布団は物に包んだり入れたりせず、そのまま紐でからげて担いでいた。全体が殊の外慌てて取り乱した様子であった。隼人正の妻を戸田采女正の屋敷へ引き取ったのは、夜中に舟を使ってのことだったため、見苦しいことはなかったという。これは両家より迎えに参った者の才覚の有無にもよるだろうが、総体、あまりに引払いが火急だからである。
[解説]藩をよく大会社に例える人がいる。これにはちょっと賛同しかねる部分もあるが、似たようなものであることは確か。その大会社の本社ビルをはじめ、支社、支店、すべて即日退去、撤収するのが屋敷の引払いである。いかに無理なことをやらされたかがわかる。江戸時代は、領地も屋敷もすべて公儀のものである。だから領地替え(転封)ということも行われたので、処罰として城や領地が没収となると、江戸の屋敷も返上しなければならない。数日間の猶予もなければ、期限を定めて、その時までに引払うといったこともない。ただちに引払わなければならない。赤穂浅野家が藩主刃傷により江戸の屋敷の引払いを命じられたが、見事にその日のうちに完了した。これは、日ごろから整理整頓をし、何かあればすぐ持ち出しができるようにしていたためと言われるが、浅野家では同格の他藩より多く人を召し抱えていたため、人海戦術が奏功したようだ。実際の引払いはここに述べられているように混乱を極め、取るものも取り敢えず、着の身着のままといった状況だった。物が紛失したり行方不明になるのは当たり前。長持があっても担ぐ棒がなく、急いで杉の生木の丸太で代用したり、供の女中たちが皆はだしのまま付き従うといった状況。ちなみに、当時は庶民の間では外もはだしというのはめずらしいことではなく、幕末に来日した外国人たちが驚き、明治新政府ははだしや下帯ひとつの裸体のままの外出を厳禁したほど。しかし、それはあくまで庶民の間でのことで、武家の世界では女中といえども身なりを整えて品位を保つのは当然だった。それだけにはだしのままというのは異様な光景であり、屋敷の引払いがいかに熾烈を極めたかがわかる。
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