政談382
【荻生徂徠『政談』】382
●博奕打の捌きの事
博奕打ちの捌きに異国の律は使い難い。今は博奕打ちに通り者というのがある。強盗と同じようなものである。仲間がいて、仕掛けをしてどうやっても賭けている人の金を取るようにし、勝った者は殺してしまう。今、捨て物というのがあり、殺した者が判明しないのは、多くは右に述べた通り者のすることだからである。これは田舎で極めて多い。公儀より探索があると田舎へ逃げて行き、探索が止むとまた戻る。仲間は遠国と通じて共謀し、もしその地元に知る人がなくても、その土地の者を仲間にする。男立てを第一にするから結束しやすい。これは強盗らと変わりがない。律に言う兇徒(きょうと)である。死罪は免れない。通り者にだまされて博奕を打った者は、律の定めで妥当である。今、客は過料を以て処罰としているが、これは甚だ間違いである。金を自由に使える者から過料を取るのでは、博打を許して運上金を取るのと同じである。金さえ出せば許されるというのでは、何度でも繰り返す。博奕打ちが露見しにくいのは、気前よく宿賃をよく払うためである。時には脅すこともする。このため、町人は喜んだり怖がったりして、通報しないし白状しない。浅草の蔵前、小田原町の河岸(かし)に、競い組と称する者がある。徒党を組んで暴れるのである。仲間を作り、その仲間が負けると仕返しをするため、一般の人はとても恐れて奉行所へ通報しない。これも律に言う兇徒であり、厳しく取り締まる必要がある。
[語釈]●男立て 男伊逹。武士を中心に、助けを求められると利害打算抜きにその人を守るのが美風とされ、これを男立てといった。のちに任侠と言われるようになった。この美風意識も次第に薄れる一方、博徒など犯罪者、ならず者(渡世人)の間で習俗となり、一宿一飯の恩義といったことが言われるようになった。中には一般の人を強権から体を張って助ける者もいたが、あくまで時代劇・やくざ映画の世界でのことで、現実には堅気(かたぎ=一般人)には手を出さないといったことはなく、いかさま賭博で金を巻き上げ、それでも大勝ちする人がいると殺して金を奪い取るといったことが横行した。幕府では賭博は勤労意欲をなくさせて、金欲しさに犯罪に走る者が続出するとして禁令を出し続けたが、皮肉にも大名屋敷の長屋などが賭場となり、根絶することはできなかった。
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