政談381
【荻生徂徠『政談』】381
(承前) 結局、私的な闘諍は公けの禄を頂く者にとっては大義を忘却した行為であり、称賛すべきことではない。このような者は、肝心の戦場でも逃げないとはいえない。軍(いくさ)の言葉に「引く」というのは「逃げる」ということを忌み嫌って言い換えたもので、つまりは逃げることである。
[解説]戦地で「引け」という命令は退却のことだが、これらは結局「逃げろ」ということ。逃げることで被害を最小限に食い止めるとともに、態勢を立て直すのだから、決して恥でも卑怯でもない。もちろん臆病でもない。しかし、やるべきことをやらず、まず戦うということをせずに敵を見たらすぐ逃げるのでは、これは臆病と言われても仕方がない。以上を前提として、武士というのは常に公けのために行動し、戦う者である。それをせずに、個人的な恨みを晴らそうとして相手を討つのは、決して武士らしくあっぱれであるとはいえないと徂徠は否定する。赤穂浪士の討ち入りに対して批判した少数派の一人が徂徠だが、将軍綱吉から処分についてどうすべきか問われた時も(つまり本書執筆より30年近く昔)討ち入りを仇討ちとは認めず、徒党を組んでの私的な騒ぎと酷評した。この考えは一貫している。赤穂浪士の場合、公儀に仇討ち免許状の申請をしていないことが問題となったが、規則よりも「武士として忠義を尽くした」とする賛成派が多数を占めた。武士は行政に携わる者だが、まだまだ法制よりも「らしさ」が尊ばれる感情が支配していた。江戸城下で刀を抜くことは禁止され、私的な喧嘩、騒乱も厳禁だった。更に仇討ちの許可を受けておらず、そもそも赤穂の藩士は公儀の裁きにより浪々の身となったのだから、吉良を恨むのは筋違い。いくつもの違反をしているのだから、庶民として死罪(打首)が相当のところ、徂徠も配慮して武士の名誉刑たる切腹がよいとした。徂徠の意見が採用され、46人はお預け先の肥後熊本細川家ほか計4家にて切腹となった。切腹といっても形だけで、実際は打首と変わらなかったそうだが、切腹して果てたという名誉は保たれた。
この段が喧嘩両成敗についての締め括りとなる。幕法として喧嘩両成敗は成文化されておらず、戦国時代からの慣習として藩によって踏襲されてきた。徂徠は聖人の法として称える一方、なんでもかんでも喧嘩として事実関係や双方の言い分も確かめず成敗するのは行き過ぎで、喧嘩とはいえない事例はもちろん、疑わしいものについても糾明することが必要で、それをしたからといってなにも恥ではないし、公儀によって相手の処刑が代行されたからといって臆病呼ばわりされるものでもないとする。法制論者の徂徠らしい立場である。仇討ちそのものは否定せず、むしろ最初から公儀に処刑してもらうことを期待して自分からは手を出さない者は臆病であるとする。昔の人は臆病と言われることをとても恥とし、現代人にはちょっとわからないぐらい深刻に悩んだ。そういわれないために、常に堂々とし、毅然とした態度を取るように心掛けたが、なかなかそれもできることではない。
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