政談375
【荻生徂徠『政談』】375
●喧嘩両成敗の事
喧嘩両成敗は今の定法にして、聖人の道に叶っている。ただ、聖人の法では両成敗とはせず、罪の有無を糾明して、討った人に罪がない時は討たれた人の子を遠隔地に移して、敵討ちをさせないようにするのである。これは「父の仇は共に天を戴かず」と決めて、天子の領地の外、天下の外に移すことである。されば喧嘩両成敗ではないけれども、五倫の道を重く立て、敵討ちを許してはいるものの、それをさせないように定めたのである。今、両成敗というのは、片方を生かしておいては敵討ちの連鎖が絶えないことから両成敗としたのであり、五倫を重く立てて、その上で敵討ちを許すのだから、聖人の道に叶っているのである。
[語釈]●喧嘩両成敗 江戸時代にはこれを定めた幕法は存在しない。戦国時代の武田氏の「甲州法度之次第」(「喧嘩はどの様な理由があろうと処罰する。ただし、喧嘩を仕掛けられても、我慢した者は処罰しない」)などの分国法が慣習的に採り入れられたに過ぎない。喧嘩とは現代でいう少数人数による殴り合いなどといった狼藉事件のみを指すのではなく、本来の字義である「騒動」「喧騒」の意味であり、一族や村落を挙げた抗争事件や境界紛争なども意味している。喧嘩両成敗は、紛争当事者同士の「衡平感覚」を考慮しつつ、緊急に秩序回復を図るための武断的即応的な解決手段である。また、武家では敵討ちという私刑が行われ、江戸時代には免許制となったが、徂徠も言うように、敵討ちは双方の子孫や縁者、家臣らによって敵討ちの敵討ちといった連鎖が生じることから、当事者同士を等しく処罰することで敵討ちをさせない目的もあった。徂徠といえば赤穂事件における浪士切腹論を説いたが、そもそも赤穂事件の発端である浅野と吉良による江戸城中での刃傷は「喧嘩」とは認定されず、浅野の一方的な襲撃と見做され、吉良は手向かいせず神妙であったとして無罪とされた。これに浅野の家臣らが憤懣やるかたなく吉良邸討ち入りを決行したが、当時から浅野だけを罰したことは「片手落ち」であるとされ、「喧嘩両成敗は神君家康公以来の幕法である。それにもかかわらず吉良殿にはお構いなしとは」と吉良が悪役とされるまでになったが、そういう幕法はなかったのだし、大切な天皇と上皇の使者に対して答礼をする儀式の日に「騒動」「喧騒」を引き起こしたのだから、いささか将軍が感情的になって即座に切腹、城地召し上げを命じたのは短慮に過ぎたが、両者を等しく罰するという取り決めがなかった以上は、このような判断がなされるのも無理はない。 ●「父の仇は共に天を戴かず」 『礼記』「曲礼(きょくらい)上」にある。これも赤穂事件に関係するが、いよいよ討ち入りが決まり、口上書の草案が出来上がった。草案には「君父の仇」とある。これが問題とされた。聖人の書である『礼記』には「父」とある。これを勝手に「君父」と改変するのはいかがなものか、ということ。これに対し、大石だったか相談を受けた市井の学者だったか、「大義のためなら字句の異同には拘る必要はござらぬ。このままでよい」と言ったとのこと。この話も作り話のようだが、敵討ちの相手に主君も入れられた例として注目されている。
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