政談339
【荻生徂徠『政談』】339
(承前) また、伺いにも区別がある。我が父が綱吉公がまだ部屋住みだった時、医師として召し出されたが、薬部屋の事で御用人に伺う事があった。御用人の柘植(つげ)平兵衛という人に伺ったのだが、平兵衛は「我らは存ぜぬ」と答えた。その時に我が父はとても立腹し、この人は後に自分に難が降りかかることを嫌がって指図をしないのは、御用人として卑怯であると思い、「御役人であるから伺ったのでござる。御指図なされない上は、私の存念にてさせていただく」と言い捨てて座を立った。その時平兵衛は御廊下まで追いかけてきて、「そなたの料簡も最もとは存ずる。されども色々と差し支えもあり、拙者の考えも同じゆえ、そなたの思うようにされよ」と指図をした。これより平兵衛と父は無二の間柄となり、父のことを「御用に立つ人である」と影でも褒めたことである。後で聞くところによると、この平兵衛、人がものを伺うにあたり、その人が自分の考えを述べて、このようにしたいと伺えば指図をしたのに対し、自分の考えを言わずにただどのようにすべきかを伺う人に対しては、「御用の役に立たぬ人である」としてとても嫌ったという。以上のことも、御奉公に身を入れて励むことは人々に積極的にさせるのがよいという平兵衛の考えから起こったことなのであろう。
[語釈]●我が父 荻生景明(かげあきら 1626-1706)。号は方菴(ほうあん)。名は敬之,景明。別号に桃渓。江戸出身。上野(こうずけ)(群馬県)館林藩主徳川綱吉(当時)に侍医として仕える。延宝7年綱吉に罰せられ,上総(かずさ)本納村(千葉県茂原市)に蟄居。元禄3年許されて幕府の医官となる。宝永3年11月9日死去。81歳。
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