政談333
【荻生徂徠『政談』】333
(承前) 大名には家相続といって、年齢には拘らない例あるが、旗本を支配する輩がこの例を採らないのは、こういった例について調べようともせず、ただ扱い慣れた方法で申し立てれば何の詮議もなく通るからで、これだから今は何もかも願い出ることがはやるのである。さらにまた、次男・三男を他家に養子にやりたいという人々の願いからその支配や頭に頼むため、頼まれた以上無視することもできずその通りにしてしまうこともある。これらは願いに構わず、その支配や頭が「同苗の親類はいないか」と吟味をして申し立てるべき事である。結局、仕組みや例などに詳しくなくて、同苗でも他苗でも跡目さえ立てれば同じ事と思ってしまうのであろう。
[解説]家が中心だった昔は、家を相続する者がなければその家は廃絶となった。大名にしろ幕臣にしろ、一家を構える者には多くの家来や陪臣、使用人がいる。会社組織に例えられるゆえんである。家を継ぐ者がなければ家臣や使用人たちは路頭に迷う。家臣や使用人たちにも家族がいるからである。そこで、なんとしても跡継ぎを絶やさないように、主人の健康管理に留意するとともに、できるだけ多くの男子をもうけるようにした。正妻のほか側室を持ったのも、ひとえに男子を、嫡男を確保するためである。婚姻が早かったのも、いつ病気や事故で亡くなったり動けない体にならないとも限らないからで、大名の子ともなると、まだ10歳になるかならないうちに娶わせることも古くにはざらにあった。
このようなことをしても、急死といった事態はいかんともし難く、そのために早くから跡目相続を決めておくことが常識となった。子がまだいないにもかかわらず、養子をもらって、その子を世継ぎとして届け出る。養子は誰でもよいというわけではなく、律令制度の「親族の世代系列の中で、養子たり得るのは子の世代列」つまり四親等以内に限るという定めが江戸時代でも踏襲された。
しかし、すべての家や主人がそれほどの家族構成を構築しているわけではなく、四親等以内に対象者がいないケースや、まだ主人が跡目を決めていない段階で急死するケース、これがよくあって、なにかと騒動のもとなったのだが、このために末期(まつご)養子・急養子ということが行われた。これは慶安4年(1651)から認められるようになったものだが、形式上は主人みずからが認定をし、届け出なければならない。しかし、それをせぬまま主人が亡くなってしまったのだから、物理的には不可能。幕府としても、特に家康公に忠節を尽くした家ほど絶やしたくはない。そのため、主人が亡くなったり、危篤状態の時に、その家からの要請で幕府の目付が急行し、目付の前で跡目相続の儀を行う。重臣が布団に横たわっている主人の顔に耳を寄せ、「跡目の儀は誰それ殿にお譲りあそばされるのですな、承知仕りましてござりまする」などと、主人は何も言っていないのに、あたかもそうささやいたかのように演技をして、目付に向かって「主人はただいま、かように申しましてござります」と、跡目相続が行われたように告げる。目付は目付ですべて演技、虚構とわかっているが、「しかと見届けた。早速、そのようにお伝え申そう」と、これまた芝居がかった態度で承認する。明らかにインチキであるが、このような急養子の制度がまかり通った。
ところが、これが当たり前になると、対象者についての偽りがひどくなり、まだ幼児だったり、歯の抜けたシワだらけの老翁まで届け出る始末。そのため、17歳以下および50歳以上は厳しく制限することにした。制限を設けてしまうと、困るケースが増える。徂徠は、規則に基づいて届け出る仕組みは却って混乱や望まざる不正行為をさせることになるとして否定的だが、その理由は続いて詳細に述べられる。
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