政談325
【荻生徂徠『政談』】325
(承前) 射芸は君子でなければできない技術であるから、不得手な人は、射礼の際には不得手とは言わずに病と称して休むことがある。また公家の歌会の時、歌が不得手な人は病気で休むと偽りを言っても、それが不忠と言われることはない。時節を考え、悪人が上に居る時は、病と称して引き籠るより他に方法がなく、古より仮病を使う人に賢者が多い。
[解説]現代では仮病を使って休む行為は理解されず、批判の対象となるだけでなく、所によっては処罰されることもある。嫌な事から逃げていてはロクな人間にならぬ、組織をなんだと思っているのか、など、いろいろ言われる。ここで徂徠が言うのは、本業に対しての仮病ではない。儀式などで行われる特別な技能や才能を要求される行為に対して、不得手な人が無理に出て笑い者になったり、失敗したことをきつく咎められたり、上司や仲間たちは「気にすることはない」と言ってくれるものの自責の念にかられて自信を喪失してしまう性格だったり、そういうことについては仮病を使うのはやむを得ないことであるというのである。徂徠という人は個人の性格や器量、才能を重視した人で、できない人を無理矢理全体と同水準にさせる全体主義者でもなければ、「根性が足りないからだ」とどやしつける精神主義者でもない。極めて合理的であり、だから射礼の場合は射芸のうまい人にさせるのが良いし、歌会も全員参加などと強制せずに病気を言い訳にした欠礼を公家の世界で認めているのは賢明なこととして評価する。痛烈なのは、上司、頭が悪人の場合、無理に仕えるよりも病気と称して引き籠る、隠棲するしか自分を守ることはできないし、古来より賢者と言われる人たちは多くこれをしているという。老子や陶淵明などのことが頭にあったかもしれない。儒者の徂徠にとって、中国古来からの政治観は強い影響を受けており、世が乱れ、為政者に徳がなく横暴な時は「君子危うきに近寄らず」の格言と併せて世間から退くのが賢いと考えても不思議ではない。
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