政談317
【荻生徂徠『政談』】317
(承前) さて、御謡初(おうたいはじめ)は重要な儀式であることから、これについては猿楽を用いることとし、猿楽師は先規のように暇を出して奈良へ登らせるべきである。かの者たちも綱吉公の御代に暇を出され、拝領物を頂きながら御城下に逗留したままで奈良へは行かぬ。その当時は猿楽が流行したことから彼らも豊かだったが、今は生活に難儀する者がとても多い。しかし、長く御城下に住み、今では御城下を定住地として奈良へも登らず、定住とはいっても行き場がないような状態である。
[語釈]●御謡初 江戸城中で正月に行われる儀式。当初は2日に行われたが、4代家綱の時から3日の行事となった。
[解説]これも徂徠の主張する「本来の土地に定住すべき」ことで、猿楽師(能楽師)は本来の奈良に戻り、御謡初の時だけ江戸に下向すべきとする。5代綱吉は殊の外猿楽が好きで、行事や儀式のたびに一同に自身で舞を披露するほどだった。この影響から各大名でも猿楽師を招いて舞わせたことから、猿楽師たちは収入に恵まれ、江戸に定住するほどだった。6代家宣は就任して綱吉の悪政を撤廃したまではよかったが、病気により将軍在位が短く、7代家継は幼少の上に夭折で、ともに猿楽どころではなかった。このために猿楽師たちはたちまち収入が減り、さりとて奈良へ引き上げることもならず、そのままズルズルと江戸住まい。8代吉宗は元気いっぱいの将軍だが、猿楽は好きではなく、儀式の時でさえほとんどしなかった。そこで徂徠は、幕府の責任において猿楽師たちを奈良へ戻し、重要な御謡初の時だけ招くようにすべきと提案する。これは今の在日問題にも通じることである。
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