政談315

【荻生徂徠『政談』】315

(承前) 猿楽師の家で、自分たちの家は聖徳太子より起こったのだというのは大いなる戯れ言である。聖徳太子の頃より猿楽の先祖が舞曲の事を掌るようになったのを混同させて猿楽の始まりというのである。南都(奈良)の楽人(がくじん)狛(こま)氏の輩は、みな聖徳太子以後の楽人で、法隆寺の近所に楽人の苗字が地名となったものがいろいろある。

 今春(こんぱる。金春)家に天から降って来た海士(あま)の面というのを家宝として代々伝えている。これは謡曲の海士ではなく、舞楽の安摩(あま)である。その面は紙を固めて作ったものだから、天から降って降ってきたものと言いたいのだろうが、これは天から降ってきたものではなく、人が作ったものである。されば、猿楽の元は楽人の家から分かれたものであることは明らかであり、聖徳太子とは関係がない。


[語釈]●猿楽師の家 原文は「猿楽の家」。猿楽師の前身は散楽師。律令制における雅楽寮に属し、雑楽の一つとする。 ●狛氏 「高麗」「巨万」などとも記す。高句麗の帰化人で、宿祢(すくね)姓。和名として辻・上(かみ)・窪・久保・奥・東の六家がある。 ●今春 現在は金春と表記。能楽五流の一つ。 ●謡曲の海士 讃岐の志度(しど)の海士(海人)が藤原不比等との間に藤原房前を生んだあと、不比等が竜王に奪われた宝珠を海底から取り戻したものの亡くなり、幽霊となって房前に語るという謡曲。シテ(主人公)が海士。

 ●舞楽の安摩 雅楽の曲名。左方の二人舞の舞楽で、『二ノ舞』という滑稽(こっけい)な番舞(つがいまい)を伴う。別名『陰陽地鎮曲』。聖武朝736年(天平8)に林邑(りんゆう)僧仏哲が伝えたという林邑八楽の一つで、インドか中央アジア伝来の曲と思われる。楽書には、仁明(にんみょう)朝(833~850)に楽人大戸清上(おおとのきよがみ)が勅命によって改作したという記述もある。舞の装束は襲(かさね)装束または蛮絵(ばんえ)装束に巻纓(けんえい)の冠をつけ、右手に笏(しゃく)を持つ。特徴的なのは雑面(ぞうめん)(蔵面、造面とも)と称する面で、長方形の白絹に耳、目、鼻、口が象徴的に描かれている。この面はインドの女神ドゥルガーに由来するともいわれる。楽曲は壱越(いちこつ)調、古楽の中曲。全体は安摩、静(しず)安摩、囀(さえずり)、早(はや)安摩の4部からなる。

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