政談313

【荻生徂徠『政談』】313

 ●将軍宣下御能の事

 将軍宣下(せんげ)の御祝儀として各家で能を催すのは意味のないことである。秀忠公将軍宣下の時は、まだ天下を掌握していなかったのだから、このようなことはなかっただろう。大方は家光公将軍宣下の時に、伊逹政宗・細川三斎といった血気にはやった者たちが始めたことが、今は作法のようになったのであろう。しかし、公儀を敬うためのものである以上、誰も止めることができない。どのような状態かといえば、老中を招いて食いもせぬ膳を据え、親類・友人をはじめ、出入りの医師や町人までも呼び集め、無分別なほど贅を凝らし、新しい舞台を能役者に賜り、膳や椀を使い捨てにし、このようなことを面白がるのは何も得る所がない。もっと正しいやり方というものがあるはずである。


[語釈]●将軍宣下 時の天皇が、武家政権の長であり日本の統治大権を行使する征夷大将軍職に任ずる儀式のこと。近世に入ると朝廷の権威が失墜して、代わりに禁中並公家諸法度などによって朝廷に支配権を及ぼして公儀の体制と封建王的な地位を獲得した徳川宗家でさえ、その支配の正統性は天皇による将軍宣下に依存しなければならなかった。将軍宣下の際は、江戸時代の大半を通じて、江戸城に勅使が赴き、将軍が上座、勅使が下座に立って宣下を行ったが、幕末期には皇室・公家の権威が尊王思想の影響で回復を遂げたため、徳川家茂以降、勅使が上座、将軍が下座となった。 ●伊達政宗 1567-1636。出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。 ●細川三斎 1563-1645。細川忠興(ほそかわ ただおき)。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏の出身。正室は明智光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖。


[解説]江戸時代の武家は何かあれば猿楽(能と言うようになったのは明治になってから)を舞った。将軍宣下といった国家的大行事に限らず、普段でも節句をはじめ、季節や祝儀事があると将軍や藩主みずからが舞った。特に5代将軍綱吉はたとえば松平(柳沢)吉保邸などに御成りの際にも、歓待を受ける身であるのに自身で舞を披露している。綱吉は身長が130センチもなく(小人症)、これをとても気にしていた。そのため、わざわざ人前で舞を披露したり、大名や幕臣を集めて学問の講義を頻繁に行ったが、これらは自分を大きく見せたいという心理的欲求のなせるわざであろうとされる。子どものように背が低かったから引き籠りになるのではなく、逆に積極的に人前に出て、自分を大きく誇示することで「小さい」と言わせまいという気持ち。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。