1925年8月20日

1925年8月20日 大正14年

【内 閣】

加藤高明改造内閣

総理 加藤高明/外務 幣原喜重郎/内務 若槻礼次郎/大蔵 濱口雄幸/陸軍 宇垣一成/海軍 財部彪/司法 江木翼/文部 岡田良平/農林 早速整爾/商工 片岡直温 /逓信 安達謙藏/鉄道 仙石貢/内閣書記官長 江木翼/法制局長官 塚本清治

【元 老】

西園寺公望

【宮中主要官】

内大臣 平田東助/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 浜尾新/枢密院副議長 一木喜徳郎

【軍部高官】

[陸 軍]

陸軍次官 白川義則/軍務局長 畑英太郎/参謀総長 河合操/参謀次長 武藤信義/教育総監 大庭二郎

[海 軍]

海軍次官 岡田啓介/軍令部総長 山下源太郎

【植民地高官】

朝鮮総督 斎藤実/台湾総督 内田嘉吉/関東長官 児玉秀雄/樺太庁長官 永井金次部/南洋庁長官 横田郷助

【東 京】

府知事 宇佐美勝夫/市長 中村是公


第1次共産党事件に判決。堺利彦ら10人に禁固10ヵ月。

第一次共産党事件は日本共産党に対する最初の弾圧事件。創立後非公然活動に従事していた共産党について、1923年(大正12)5月、佐野学の管理していた秘密書類をスパイから入手した警察当局は、6月5日未明、堺利彦、山川均ら約80名を一斉検挙した。この検挙により、共産党の存在が世間に知られ、「第二の大逆事件」との宣伝で、運動全体に大きな衝撃を与えた。結局29名が起訴され、治安警察法違反で公判に付され、25年8月20日判決がなされた。第二審判決は翌年4月28日に言い渡され、大審院は8月4日被告人らの上告を棄却し判決は確定した。この事件は、創立されたばかりの日本共産党に対する最初の弾圧事件であり、日本の支配階級が、日本共産党の存在それ自体を許さない反動性を示し、反共主義の出発点となった。創立されたばかりの共産党は大きな打撃を受け、党内に解党主義的な日和見主義の潮流が生まれ、それとの闘争が重要課題となり、また天皇制政策のスパイ・挑発政策との闘争の重要性を教えた。


廖仲カイ、暗殺される(1877年4月23日生)。{カイ:「りっしんべん」に鎧のつくり}

 廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年4月23日 - 1925年8月20日)は清末民初の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党では容共左派の指導者として知られる。仲愷は字で、名は恩煦。別名に夷白。筆名に屠富、淵実。祖貫は広東省恵州府帰善県。兄は廖鳳書。妻は何香凝。子は廖夢醒、廖承志。1925年(民国14年)年8月20日、廖仲愷は広州での国民党中央常務会議に出席し、党本部の正門を出たところを、突然刺客に襲撃、暗殺された。享年49(満48歳)。この暗殺が国民党右派の差し金によることは確実とされるが、首謀者が誰かについてははっきりとしていない。結局のところ、廖の政敵にして右派実力者である胡漢民が首謀者と疑われ、一時失脚に追い込まれてしまう。それでも、胡が本当に暗殺指示をなしたかどうかは不明である。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。