政談307
【荻生徂徠『政談』】307
(承前) かつて水野隼人正(はやとのしょう)が毛利主水(もんど)に斬りかかった時、毛利の後ろに幼少の南部とその家来三人が付き従っていた。隼人正が万一、南部に切りかかれば、家来たちも抜き合わせたであろう。そうなると御目付ではどうしようもない。こういったことはこれからもないとは言えまい。
[語釈]●水野隼人正 信濃松本城主水野忠恒(1701-39)。享保10年(1725)7月28日、江戸城中で発狂し、毛利師就に斬りかかって負傷させた。このため城地没収、秋元喬房にお預けとなり、のち叔父忠穀(ただよし)邸にて蟄居を命じられた。 ●隼人正 律令官の一つ。古代、大和の国とは風俗習慣を異にした大隅・薩摩の国人、及び、そこから守衛として徴収した兵を指して隼人といった。隼人は勇猛かつ敏捷、の意で[はやひと]と読み、略して[はやと][はいと]などと言う。隼人正は隼人の名簿その他管理監督、歌舞の教習、竹笠の制作に関することを担当。ここでは江戸時代における名目上の官名。 ●毛利主水 長門長府藩主毛利師就(もとなり 1706-35)。この毛利家は分家。師就は正当防衛とされ、お構いなし=無罪となった。喧嘩と認定されると双方に罪ありとして処罰される。なお、水野が斬りかかったのは、水野家が改易され、その所領が毛利師就に与えられるという噂を水野が信じたためであるという。 ●主水 律令官の一つ。正しくは「もいとり」。「もひとり〔もいとり〕」「もんど」とも言う。宮内省の配下で、飲料水、及び、氷室〔ひむろ〕、粥〔かゆ〕を担当した。
●南部 陸奥盛岡城主南部利視(としみ=画像)。この時はまだ幼少で官位がなかったため、徂徠は氏(うじ)だけを記した。事件後5か月で修理大夫に叙任、最後は大膳大夫まで進んだ。城中は主君が幼少であっても家来の帯同は許されていない。この日は利視が初目見得であり、南部家では将軍の謁見が許された家来を初目見得や相続の時に帯同するのを慣わしとしていた。このような例は他家にも見られた。
[解説]江戸城中での緊張感というのは我々には想像もつかないほどで、そのために大名の中には重圧から強いストレスとなり、思わぬ症状が出る人も少なくなかった。中には突然斬りかかる人もいて、かの浅野内匠頭も吉良そのものが原因というよりは、自律神経失調症などによってパニック症状を起こしたという説が有力である。ここに挙げられている水野隼人正も噂を気にし過ぎて不安となり、城内という特殊な空間での緊張に加えて、所領を横取りするかもしれないとされる相手を目の当たりにしたことで、感情が激したのだろう。徂徠がこの刃傷事件を例に出したのは、前段を受けて、こういう場合は目付を呼びにやる暇などなく、そこに居合わせた家来が主君を守るために小刀(ちいさがたな。太刀は所持が許されていないので脇差)で乱心者に防戦するのは当然であり、番士の警護とはこういう時のためのものであることを再確認している。
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