政談306
【荻生徂徠『政談』】306
(承前) 御番衆は警護の役であるから、いくつもの部屋だけでなく、御庭までも時々見廻り、守護すべきである。御礼など式日の節は御廊下に詰めて警護する。昔の日本も、そして異国でも、大礼の時には警護の役人が側に居並ぶが、これは昔からの定めで理由のあることである。孔子が夾谷(きょうこく)の会の時に司馬の職を設けたのがこれである。御番衆が三河から江戸詰めとなった時、無骨の者たちであることから、その行儀をしつけようとして仰せ出されたことが定法となったのだろう。今は行儀作法にばかりとらわれ、御番衆を敷居の内に配置し、居並ぶ坊主のように並ばせているが、どういう意味でこんなことをさせているのか。
[語釈]●夾谷の会 魯の定公10年、定公は斉(せい)の恵公(けいこう)と夾谷で和親の会合を催した。この時、定公に対して警護のために左右の司馬を置くことを勧めた。孔子は補佐役だったが、政治家として最も輝いた時だった。斉は晋と対立しており、これ以上事態が深刻にならないためには魯と友好関係を結ぶ必要があった。孔子の提案は成功し、これ以後、司馬の職が重視されるようになった。会の経緯については『史記』の孔子世家(こうしせいか)に詳しい。
[解説]番士というのは武士の中でも際立ってがさつだったようで、幕府はたびたび行儀作法についての法度を出している。「小便所以外で小便をしてはならぬ」というものまであり、所かまわず立小便をするほど下品で傍若無人だったことがわかる。所かまわず、というのはまさしく言葉の通りで、屋外だけではなく、城内でもやったのである。以前、母親が電車の中で赤ちゃんに小便をさせたことがあり、物議を醸した。電話ボックスが今のように全面ガラス張りになったのは、昔の構造は上半身の高さの部分だけがガラスだったことから、酔っ払いや女性が夜などにこの中で小便をすることがよくあった。そのために今のように改めたという。この他、不自然な小さい水たまりのようなものが通路や物陰に時折見かけるが、これらも小便であろう。このように、生理現象をがまんできない人、所かまわずする人などが今もやるほどだから、昔はもっとひどかったことだろう。
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