政談305

【荻生徂徠『政談』】305

 ●御番衆御敷居の外へ構わざる事

 御番衆は将軍の御座敷ばかりを守り、御敷居の外では何が起きても関知しないが、以前はこのようなことは聞かなかったものだ。家康公が甲州へ討ち入りなされた時、乱心者が刀を抜いて多くの人を殺めたが、この時に御番衆の組の者らがそれを止めさせた。また秀忠公の御代であったか、井上主計頭(かずえのかみ)を突き殺した者を、小十人の者が御廊下で組み止めたことがあった。御敷居の外のことは関知しないということは、昔はなかったことである。今は御敷居の外ではなにがあっても関知しない。なにかあれば目付にまかせというのは実に無責任である。


[語釈]●番衆 殿中・本陣などに宿直して、警固・雑務に従事する者。もと鎌倉・室町幕府の職制の一。幕営に詰めて、将軍の身辺警固などにあたった者。番方。「ばんしゅ」とも。 ●井上主計頭 井上正就(いのうえまさなり)。1577-1628 織豊-江戸時代前期の武将,大名。遠江出身。井上政重の兄。徳川秀忠に近侍し,元和元年小姓組番頭(ばんがしら),8年老中となる。同年遠江(とおとうみ)横須賀藩主井上家初代。5万2500石。寛永5年8月10日江戸城西丸で目付の豊島(としま)信満に殺害された。52歳。縁組の破談が原因といわれ,江戸城内における最初の刃傷(にんじょう)沙汰とされる。豊島を組み止めた青木義精(よしきよ)も重傷を負い、のち死亡。


[解説]泰平の世が続くに従い、自分の持ち場・分限だけを大切にし、近くで何が起ころうとも関係ないかのごとく知らんぷりをする者ばかりとなった。見て見ぬふりということ。番衆は将軍や藩主を警護するのが務めなのだから、御座敷内はもちろん、その外でもなにか発生すればただちに対応しなければならないのに、いつしか座敷内だけを自分の管轄とし、外で騒ぎが起きても目付らに対応させるのを当たり前と思うようになった。徂徠は家康や秀忠の例を引いてこういう悪しき風潮を批判している。

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