政談303
【荻生徂徠『政談』】303
(承前) この他御礼日などに大手先が殊の外混み合うのは、法制を立てていないからである。大名の供廻りの人数を減らせば少しは良くなるだろうが、それも法制を立てなければ大して違いはないだろう。殿中も出仕日は殊の外騒がしい。これも礼がないからである。いずれも御老中を初め無学であるために、操練の事も礼の事も不案内だから生ずるのである。
[語釈]●御礼日 毎月1日(朔日)と15日(28日も)、歳首(正月三が日)、上巳(じょうし)、端午、6月17日の嘉祥(かじょう)、七夕、八朔、9月9日の重陽(菊の節句)、玄猪(10月上旬の亥の日)、歳暮、臨時朝会など。
登城・下城の際はどの家中も行列を仕立てた。参勤交代のようなフル編成ではないが、少しでも見栄えをよくしようときらびやかにした。幕府は再三にわたり質素倹約人数の削減を呼びかけたが実効はなかった。江戸市民にとっては全国の藩に触れることができ、楽しみの一つだった。
時代劇では家臣も江戸城内に主君に扈従(こじゅう)しているものが散見するが、城内への家臣や陪臣の帯同は許されておらず、主君ひとりで入城した。城内では世話役の役人や御坊主衆(いわゆる茶坊主)が身の回りの事から伝達、呼び出しなどをした。家臣や陪臣たちは城外で待たされることになる(ごく一部、門内の控え所に待機)。野外だから真冬だろうと真夏だろうと、大風や大雨、大雪でも待った。城からは接待役が湯茶を提供し、それを飲んだり、弁当を使ったりした。
待つといっても終日ということはほとんどなく、通常は朝から昼まで。式そのものは1~2時間程度なので、昼をまたいで弁当を食すといったことはあまりなかった。ただ、絵のように朝は早く、季節によってはまだ夜が明けぬうちに登城するため、夜中のうちに起きて支度をしなければならなかった。同じく主君である身の老中らは常勤なので、行列は組まず、身軽な編成。井伊大老が水戸浪士らに襲撃されたのもごく僅かな側近、警護役だけだったためで、襲う側にすればやりやすかった。
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