政談300

【荻生徂徠『政談』】300

(承前) 御城下で大名の供廻りを大勢連れて大路を塞ぎ、供が終わればそのまま門前に打ち捨てにするというのは、元来は軍中の法で、泰平の世にはあってはならないだけでなく、上を憚らない行為である。今は打ち捨てはなくなり、綱吉公の時分より供の数を減らしてからだいぶよくなったが、道を塞ぎ、大きく手を振ったり競い合って示威行為をする点は変わらない。本書巻二で述べたように、御城下を歩く人数をさらに減らし、烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)の装束にさせたならば、荒々しい気風は自然と収まるだろう。


[語釈]●供廻り 武家の奉公人の一部をさす呼称。その起源は鎌倉時代にさかのぼるが、近世に入ると足軽・小者の中間に位置する雑卒として幕府・諸藩の職制に組み込まれ、城門の警固や行列の供回りなどに使役された。中間(ちゅうげん)。「仲間」とも書く。中間は武士の最下級で,侍の下,小者 (こもの) の上に位した。鎌倉時代から現れ,戦国時代には一般化して主人の身のまわりの雑務に従事。江戸幕府では,若年寄の支配下に,中間頭3人が組頭3~4人を従え,1組 150~250人の中間を統率した。諸藩も幕府と類似の職制をもっていた。


[解説]供廻りの任務は文字通り主人の行列のお供をすること。武士とはいえ正式な身分ではなく、ほとんど庶民に近い。しかし、自分も武士であるという意地があり、行列の一員となれば自分を偉く大きく見せることができるので、とても威張って歩いた。身なりも奴(やっこ)といわれるもので、ヒゲをたくわえ(江戸時代はヒゲが廃れた時代)、派手な柄の着物を着、冬でも単衣(ひとえ)姿にするなど、虚勢を張った。ここから伊達男とか伊達の薄着といった言葉が生まれた。この供廻りが道路いっぱいに広がったり、通行人に威嚇するなど、大名や旗本にとっては困った存在だった。しかし、重い荷物や鑓(やり)などを持ってもらうための要員であることから外すわけにはいかない。このため、更に人数を減らし、衣服も礼装にさせたならば、迷惑行為も控えるだろうというのが徂徠の見解。


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