政談293
【荻生徂徠『政談』】293
●当時の役儀にも文武の差別ある事
今の人は役儀に文武の別があることを知らない。大坂城代・番頭(ばんがしら)・物頭(ものがしら)・船手頭(ふなてがしら)などは武官である。その他の役人は老中以下文官である。今はどちらも武家であると言って、文官も学問をせず、一方、武士の武士臭きは悪いことと言って、武官は鍛錬をせず、大奥女中のように軟弱になっている。最低限、文武の種類と区別があることを今一度教える必要がある。
政談 巻之三 終
[解説]文武両道というが、武士道とともに明治になってから、特に国家主義を目的とした公教育周辺で言われ出したもの。徂徠が言うように、人にはそれぞれ得意なことと不得意なことがある。文武両方を等しく修められるのはよっぽどの人で、文官に向いている人もあれば武官に向いている人もいる。文武両道は、あくまで本業が武である武士が武を忘れず、さらに為政者、公務員でもあることから教養に裏打ちされた文官として学問にも励むことを言ったものである。学校で「文武両道」を掲げる所が少なくないが、どうも「勉強もしっかりやれよ」と言いながら、体育(特にさまざまな武道)に重点を置いているように見える。それに向いてない子にまで強要し、全体主義が是であり、そこから脱落したり成果が出せず全体に迷惑をかけるのは悪であるといったことを同調圧力でそれとなく吹き込む。持ち前の個性を伸ばすことよりも、小さいうちから全体の中の一員であることを要求し、大会に勝つこと、「百キロ行軍」(いまだに「行軍」という言葉を使ってなんとも思わないその土地の感覚が信じられない)を完遂することで一人前と認める。江戸時代、武士全員にこんなことは強要していない。そもそも江戸時代の教育は基本的にそれぞれの家や家長が行うもので、国(幕府)や藩はノータッチ。今、地方で行われている行事の中には、「これはかちて藩が藩士全員にさせたもの」と説明しているものがあるが(甲冑姿で長距離を走るものなど)、これも徂徠が言うように、もともとの本意を知らず、後世の者たちが「世のならわし」(つまり伝統)であると勝手に言って続け、それに期待する向きがいるために続けられているものである。主催者側はそれによりいろいろな利権が発生したり、「伝統」という言葉に強迫観念をいだき、自分の代で絶やしたらご先祖、先人たちに済まない、とにかく続けることに意義がある、ということで大きく変質していることを知りながらも続ける。一般の人たちは「これが伝統か」と別に疑うこともせず、地域の一員ということで従う。
以上で『政談』の白眉たる巻三が終わりとなる。人にはそれぞれ得意とするものがあり、役職はそれに叶ったものに就くべきであること、組織では上の者は下の者の才智・器量を見出し、伸ばすために存在し、常日頃からそのために尽力すること、そして、高官でその任に堪えない者があればただちに別の優れた者に変えるべきであることを説く。以上は聖人の道(孔子などが説いた道理)であり、将軍はそのために幕府を監視し、常に更新することを求めている。これは暗に将軍その人に対しても同様であることを示唆しており、孟子の革命思想に通じる。そのため、先述のように本書および徂徠は危険視され、江戸時代を通じて五本の指に入るほどの碩学でありながら評価が低く抑えられてしまうこととなった。丸山真男・吉川幸次郎博士らによる研究により学界では再評価されているが、一般にはせいぜい忠臣蔵で討ち入りを果たした浪士たちに法に従って処罰すべきことを将軍の諮問に答えた嫌な人物、あるいは苦学して出世したさまを描いた落語・講談の「徂徠豆腐」ぐらいが有名で、歴史上の人物の中ではあまり取り上げられない人である。政治家は自身が規範を守り、自身がモラルとなる者だが、乱世というのは、政治家自身が規範を無視し、罪を犯しても追及もされず、自分たちに都合のいい法律や制度を作り、庶民には苛政を行う。徂徠はこのような事態が起きないよう、政治家を縛る制度を確立させるとともに、規範に従わない(聖人の道を無視する)者が出たならただちに罷免できるようにすべきことを説いている。世の中が平穏で遵法精神が行き届いていれば、徂徠の言う制度は必要ないかもしれない。しかし、いつまでもそういう状態が続くものではない。幕府や政権を樹立した者、それを継ぐ者たちの世代は苦労しているだけに慎重かつ大切に物事を進めるが、長く続くと、創業者たちの苦労や教えがうとましくなり、自分の思うとおりの政治がしてみたいという者が必ず現れる。周囲がしっかりと制御していれば問題ないが、周囲もまた平和に倦み、リーダーとともに自分たちの世にしたいという欲が強くなると、もう歯止めがきかない。愚かなリーダーのすることなすことすべて賛成し、反対する人たちを抑圧する。この時点でそれを封じることができる強い制度が憲法のはずだが、憲法はそもそもこのような乱暴者の出現を想定しておらず、為政者、官公吏は憲法を遵守し擁護する義務を負うとしか定めていない。そのような立場の者は当然そうするはずということであり、遵守しない者が出た場合どうするかの定めがないのは、そういう者は出ないという確信があるからである。しかし、現実には出る。徂徠のいう制度が憲法と同じかどうかは何ともいえない。憲法というものについて、徂徠が知らなくても無理はない。しかし、理念においてはかなり近いのではないかと思う。聖人の道を行うのが為政者であり、行わない者が出れば変える。そう簡単にはいかないが、ならず者を出さないためには、日ごろの教育が重要であり、よき人材を見つけられるようにすることが必須である。いろいろ考えさせられる巻三である。
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