政談292
【荻生徂徠『政談』】292
(承前) 板倉周防守はどれほどであったろうか。よく思いを致して務めたことから、治めの筋に注意を払っていたことをいろいろ承知している。京都の人はただそれぞれの職分を尽くせば京都は治まると常に言い、公家は和歌を詠み学問をすれば少々の過ちは許し、医者は療治を、職人は家業に励めば、それぞれ少々の悪い点は許すものだとも聞いている。
ある時、周防守が京都の片田舎へ行った時のこと。古くて宮居まで零落した神社があり、古い装束を着て拝殿で書物を読んでいる神主がいた。周防守が「なんの書物でござる」と問えば、神主は「神書です」と答えた。その後一年ばかり過ぎて、周防守が再びその神社へ行くと、神主は同じように書物を読んでいた。周防守は大いに感じ入り、「この神社の修復は公儀へは頼み難い。それがしに修復させていただきとうござる」と言って、ただちに修復させた。周防守が家業を大切にする神主を大いに気に入ったからであり、京都を治めるということに神主の態度が実によく合致していたからである。今はこの神社を板倉家において修復しているという。これもまた世のならわしの例ということで後世の神主も修復してくれることを期待し、板倉の子孫も周防守の本意を知らず、周防守がこの神社を信仰していたからだと勝手に解釈するのはあさましい限りである。総じて世間では周防守は公事(くじ)において名裁きをしたと評判して伝えるのは、なんでもすぐ信じてしまう世の中であることよ。
0コメント