政談286
【荻生徂徠『政談』】286
●諸役人閑暇にして政務に工夫を用い、身を踏み込むべき事
総じて役人は暇がなくては務まらないものである。ことに上に立つ大役の人ほど暇がなければならない。御老中・若年寄などは政務全般に及ぶ大役であるから、世界全体に目が行き届かなければ、役儀に遺漏が生じてしまう。暇を作り、その上で政務を工夫し、また時々は学問もすべき。今は大役ほど毎日登城し、隙がないのを自慢して、その日の用務が済んでも退出しない。相役が多ければ毎日出仕せず、交代で出仕しても御用は務まるのに、全員が顔を揃えて出仕し、御用がなくとも御用があるような顔をするのが今の風潮となっている。それぞれ得意とする職分を担当していないからこのようなことになるので、御用が務まるように御奉公の体制を整えたなら、余計な詮議は入らないものである。
[解説]重職者ほど暇がないのが当然であり、しかし、それでは行き届かない点が増える。そこで、できるだけ暇な時間が持てるようにし、同僚が多い場合は仕事を交代でするようにし、その上で自己研鑚のために学問を継続して行うことが必要であると説く。その日の分の仕事がなくなれば、その時点で終わりとし、退出してもかまわない。ところが、することがないのに「ああ、忙しい」とぼやいて忙しいフリをし、暇であることをさとられまいとする。明治以降、国民全体が強迫観念に取り付かれたかのように常に労働をし、たとえ3分でも休んでいると「なまけるな」と叱責される。時には給料を減らされたり、必要のない残業、休日出勤まで命じられる。これは明らかな懲罰である。それほど暇は罪悪視されているが、適度な休息、気分転換をしなければ生産性は上がらない。この「暇は罪悪」「暇だと悟られたくない」という観念は江戸時代の重職者の中に湧きおこっていたらしい。当時は、それぞれの職分だけこなせばよく、することがなければいくらのんびりしていても構わなかったが、老中らの間では絶えず「ああ、忙しい忙しい」と言うようになっていた。この様子はさまざまな記録があるほど。現在でも、たとえば学校の教頭(副校長)は「忙しい」が口癖となっている者を見かけるが、激務なのは確かだが、上司たる校長、さらには教諭たちから暇にしている自分をなにがなんでも見られまいという意識が働いて、わざわざ自分から仕事を作っては本当に忙しい状態に追い込んでいる。そして、ひと仕事終えると「ああ忙しい。次はなんだ」と独り言つ(ひとりごつ)。重職の役人は責任の重い仕事を多数抱え込んでいるのだから、ゆとりを持ち、分け合うことができるものは他に任せ、たまたまその日はすることがなくなればそれで終わりとする。今は「定時」ということに縛られ、勤務時間が終わるまでは退出できない。時計というものは便利だが、時計により我々の暮らしががんじがらめになったのも事実。わざとタイムカードを作らないブラックと言われる会社は論外だが、することがなくなった日は早仕舞いして自分の時間に当てる。徂徠が言わんとしていることはまさにこれである。リフレッシュすれば、また翌日から身を入れることができる。なぜこれがよいのか。その理由がこのあと述べられる。
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