政談285
【荻生徂徠『政談』】285
言うも愚かなことであるが、東照宮の事績は感嘆させられる事が多い。総じて人を御前にお召しになる時、老中の面々より諸番頭・諸物頭(ものがしら)・諸役人まで呼び、さらに身分の軽い諸番士なども時々呼んで、政務や御用について気軽に懇談したり、時にはその人の先祖について語られることもあった。酒を飲ませたり、庭石を動かすよう頼んだり、時には冗談を言ったりして、一見、なんの取り留めもないようなことが多い。「東照宮さまは御小身から天下を登りつめられた方ゆえ、御行儀の点はあまりよろしくなかった」と言いたい放題評判する者もあるが、これらの行動も神慮の深さを表わしており、それで感じ入るのである。
主な役人だけを呼び、必要な用件を言われればそれで済むことであるが、東照宮さまが存じ上げないであろう事を言上する時、御前へ出た人が感極まってしまった時は、これは誰が申し上げたらよいだろうと推量し、自分の職分に関わることがあれば申し上げるものの、これがために役人たちの仲が悪くなってしまうものゆえ、わざわざ関係のない人たちも呼び、他愛もない話をされたのである。さらに末端の者までが旗本各位になつくようになるには、ざっくばらんな雰囲気にするほうがよい。こういったことをよくわきまえておられたのである。
[解説]我が知り合いに中央官庁に勤めている人がいる。まだ事務官だった時、ふだんの様子などを聞いたなかで、「大臣とか次官は日ごろ会うことはあるの?」と聞いてみた。省庁によっても違うかもしれないが、その人は重要省庁の一員で、「姿をちらっと見ただけで、近づくことさえない」とのことだった。大臣はどうせすぐ変わるし、専門家でもないからいいが、次官は生え抜きであり、下の者まで思いが及ぶはず。しかし、気軽に会う場もなければ、呼ばれることもない。しかし、これが普通で、江戸時代でも同じだった。老中が平番士(門番、警備員)を呼んでお茶を飲むなどおよそあり得ない。老中のほうでやろうとすれば、「お立場を考えなされませ。番士ふぜいと会うなど御名にかかわります」と側近たちで止めるもの。人柄よりも立場。だからこそ、家康のような行為が称賛されるのである。どこまで事実かわからないが、まったくの捏造でもない。実際に呼ばれたり、側で見て感動した人たちが、その思いを語ったり書き残すからである。
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