政談284
【荻生徂徠『政談』】284
(承前) さらに、全身全霊職務に励む人を見れば、上の御威光でいかんともし難いと見れば、同役らのねたみ、上役の気づかいが人情として必ずあることであれば、職務に励んでいても中途でくじけてしまうものである。大久保石見守という人を猿楽師より取り立てられ、東照宮家康公に召し抱えられて大名となり、のちに悪事により死後に一族が処罰されたが、このことについて東照宮の過ちのように言う人がいるが、私などは、神慮のほどが格別であるとむしろ感じ入っている。石見守はひとかどの器量があったからこそ格別なお取立てがあり、その器量を抑えたり封じることなく働かせたのは、これは人を使う道をよく体得されている。御出頭ゆえに、さまざまの悪事もお構いなしとしたのだと事情を知らぬ者たちが言うが、そうではない。小さな過ちを許さなければ人の器量は伸びないものであるからお構いなしとするのである。その者がのちに大悪事をしでかしたのは別の話。人の使い方としては後世のようなせせこましいものではなく、むしろ万世の手本たるべきである。後世には細かな気遣いばかり強くして、大いなる益があることを知らぬ。東照宮と後世の者の器量がとても違うからである。
[語釈]●大久保石見守 大久保長安(ながやす 1549-1613)もと甲州の能役者の子という。武田氏滅亡後、徳川の老臣大久保忠隣(ただちか)に寵愛され、大久保の姓を許され、ついで家康の腹心の一人となり、農政・鉱山・交通等に実績を挙げ、徳川政権の基礎確立に尽力し、後に江戸幕府勘定奉行から老中へと昇進した。長安の死後、生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、7人の男児は全員処刑された。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。外様で老中に就いた唯一の人物。無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。 ●御出頭 寵愛を受けて抜擢された者。
[解説]大久保長安の権勢は絶大で、そのために政治力があり、さまざまな実績を挙げた。徂徠はこの点を評価し、依怙贔屓として後世そしりを受けているが、家康は人を見る目があったのだから、人を使う点では家康は立派であるとする。死後、不正蓄財が明らかとなり、糾明した結果悪事はまちがいないとして、当時は連座制が厳しく適用され、大久保の男子7人は全員死罪(つまり根絶やし)。その他の関係者も遠島など重罪に処せられた。徂徠は、この点についても特に行き過ぎだと批判することもない。不正は不正だから、報いを受けるのは当然。徂徠は法治主義者だから、罪に対しては厳格である。一方、人に対しては少しでも見どころがあればそれを評価し、不正をおこなったのだから生前の業績も帳消しとするといったことはしない。これについては議論が大いに分かれる所だろう。特に、現役の政治家の所業に対し、業績は業績、不正は不正と割り切ることができるか、それとも、不正をした以上、業績もおのれの栄達のためにしたもので認められないと否定するか。しかし、徂徠は人物の採用に主眼を置いており、家康が大久保を見出したのも政治家としての器量に対してであり、ただ自分とウマが合う者だけを集めて内閣を作るといったこととは違うということから立脚しないと、徂徠が何を言わんとしているかが見えなくなってしまう。
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