政談282
【荻生徂徠『政談』】282
(承前) 総じて上の人の一言により、大変感激して命をも捨て、職分に全身全霊を傾けるのは人情の常だが、上の者が職務精励を呼びかければ呼びかけるほど下の人たちはやる気が失せるものである。今、器量ある人が見当たらないのも、上の者の人使いが悪いためである。その原因は、御老中や若年寄を家筋によって任命し、これにより上下の区別をつけるからで、役人が傲慢になり、器量ある人が現れず、全体がやる気のない状態になるのである。
[解説]幕閣で最高位は老中であり、それに次ぐのが若年寄。老中の上に大老があるものの、大老は臨時の職であり、そのために直接担当する分掌もなく、強いて言えば副将軍のような、将軍の補佐役とでもいったもので、存在によって目を光らせるといったものだった。大老は徳川家譜代の酒井・井伊・堀田・土井の四家からしか任命されず、同じく譜代でありながら本多家や榊原家などは対象外とされた。この理由は謎である。また、五代綱吉の時に権勢を誇った柳沢吉保は徳川創業以前からの譜代ではないものの、実質的には大老と同じで、このために大老格ということになっている。
老中は今の閣僚に当たり、決まった担当はなく、合議によって政務を決した。幕末の動乱期になると外国担当など専門の老中が置かれた。今の外務大臣である。老中の中で首座という者が決められた。これが今の首相に当たる。江戸時代は将軍にばかり目が向けられるが、政治の実際は首座に負う所が大きく、土井利勝(としかつ)や田沼意次(この人は老中格)、松平定信、水野忠邦、阿部正弘、井伊直弼ら有力な老中首座はそれぞれが内閣と呼べるほどのものである。首座とは別に、月番老中が毎月交代で指名され、月番が代表して国政に当たった。江戸時代は主な役職はすべて月番制が採られ、江戸・京・大坂の町奉行もそれぞれ2名ずつ置かれ、1名が月番として実務に当たった。
老中に選ばれる家は総じて禄高が低かった。これは、権力と経済力の両方を持たせると脅威となるからで、これは高家(こうけ)も同じ。現在は権力を持つ者は同時に経済力も持つために、政界でもすぐに力を持つ。また、財界が過剰に力を持てるのも、経済力イコール権力となるからで、この点では江戸時代のほうがよかったといえる。大商人を卑しい者と見下して政治に容喙させなかった点も。
若年寄は幕臣たる旗本・御家人を統括し、今の政務官のようなもの。今の、という言い方のは本当はおかしいので、明治以降の体制が実際には江戸時代の職制の多くを踏襲しており、今は昔と大差がない。
老中は定員が4~5人、若年寄は3~4人。決まった年限も定年もなく、本人が高齢や病気により致仕を願い出るとか、突然死去したり罪により罷免されるなどしない限り空席ができない。老中は若年寄の経験者がなるのが定石なので、誰もがまず若年寄になりたがる。若年寄は老中へ出世するための通過ポスト。しかし、必ずなれるというものではなく、特に人事が固定化した中期以降は、若年寄から老中へ昇進できたのはおよそ五分の一しかいない。ほとんどが若年寄を以て致仕している。上は狭き門であること、これまた今の官僚のピラミッド構造と同じである。
なお、幕府の要職はどれほど家格が低く小さくとも譜代大名・旗本に限られ、監視対象の外様大名は参勤させられるものの、江戸での公務はほとんどなく、定例の登城日に将軍に拝謁し、なにかあれば(普請や行事など)それを命じられる程度。薩摩などにすれば、ずっと幕府からにらまれ、要職にありつけないのだから、政権を奪取したいという気持ちが強くなるのは無理もない。明治維新は「国をよくする・改革する」ということになっているが、何のことはない、政権の一翼を担わせてもらえなかった西国諸藩が政権を奪ってやろうということで結束したまでで、別に庶民にいい暮らしをさせてやろうといった麗しい気持ちはほとんどなかった。あるとしてもせいぜい自分の領民ぐらい。
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