政談273
【荻生徂徠『政談』】273
(承前) さらには、人を知るに筋やきっかけがあるということについて、癖のある人ほど優れた人物であることが多い。癖のある人がすべて優れた人ということではない。一癖ある者に優れた人が多いということ。このため、名将が「一癖ある面魂(つらだましい)をしている」と言って、そういう人を評価している例が多い。聖賢の書ではこれを器(うつわ)と言っている。器というのは、例えば鑓(やり)は突く構造をしており、切るための造りにはなっていない。刀は切るように出来ており、突くものとしては不向きである。錐(きり)は尖っているから才槌(さいづち)の代わりにはならない。才槌は鈍くて錐の役目はできない。総じて刃物は鞘(さや)に納めておかなければけがをするという難点がある。これも器である。
とはいえ、その物の良さはいずれも使ってみないことには分からない。見ただけでは不便な点ばかりが目につく。これが癖である。されば、癖のある物でなければ器とは言えず、器でなければ役に立たない。このため、人の才能や智恵に関わりあることを器と言う。人の器量という言葉もこの文字を使っている。人の才智は人それぞれであることから、使うことで役立たせることが、右に述べた「和して同ぜず」の道理に叶うのである。
[解説]人物の大きさや優れた点を表現するのに「器」という表現をする。これはずいぶん古くから行われてきたことで、身の回りにあるいろいろな物は、それぞれある用途・目的のために作られている。だから、その通りに使えば便利だが、それ以外の用途だと使えないばかりか、危険な場合もある。その物がどれだけ便利か、実際に使ってみないことには分からない。人物も同じで、人それぞれ持って生まれた性格、それによる長所や短所があり、仕事も向き不向きがある。その人の良さを知り、それに合わせて使うことが、使用者・労働者ともに気持ちよく携わることができる。仕事の口が限られてくると、なんとかして生活をしなければならないといった切羽詰まった理由から、自分に向いていない、好きでもない職種や環境を選ばざるを得なくなる。これが人生をつまらなくし、人によってはイライラが募る原因にもなる。使用者側でも、見るからにいやいや働いている者を見ていると、なんとかして辞めさせようという気持ちになり、種々の圧迫を加えることになる。よくぞわが社に来てくれた、という感謝の念、少しでも気持ちよく働いてもらおうと協力する意識を持つ者は今ではなかなか見当たらないほど少数派となり、労働者なぞ代わりはいくらでもいる、いざとなれば外国人でもいい、そのほうが更に安くつくといった、人を人と思わぬ感覚が肥大化する。錐に小槌、金槌(玄能)の役目はできないし、小槌、金槌では小さい穴を開けることはできない。しかし、今の使用者は、錐の器の人に小槌の仕事をさせ、できないと「こんなこともできないのか」と罵倒し、人格否定をし、クビにする。求人をする際には「委細面談」だのいろんな職種があり希望に沿うようにすると調子のいいことを言うが、これこそ人を人と思わず、人の器を見ない証拠である。
ちなみに、『論語』の為政篇に「君子は器ならず」という有名な言葉がある。「君子」は一般には知識人、エリート、立派な人物などと解釈するが、孔子の言葉の多くは為政者を念頭に置いており、この言葉も「政治家は器などといった限定された人物ではない。知識と教養それに徳を具えているのだから、どんな物事にも広く対処できるし、そうでなければならない」ということ。もちろん、政治家とて完全無欠というわけにはいかないし、専門性の高いことに関しては専門家の協力が必要で、そのために大臣(長官)や官僚が存在する。しかし、的確な指示や判断は政治家の責任においてすべきもので、何か起きても「予測不能だった」などと言い逃れをしたり、「判断そのものには誤りはなかった。だから問題ない」ではすまされない。自分に厳しくするのが政治家たる者で、それがいやなら政治家にならなければよい。一国の首相ともなれば、日々、どんなことが起きるかもわからず、寝ている間も気になるもの。ゴルフや酒宴も平穏な日が続いていれば、たまには良い。しかし、人が亡くなる災害が発生し、それが進行している最中にやるとなると、その感覚がおかしい。側近たちが誰一人諫めないのは危機的でさえある。これを糾弾しない翼賛化したマスコミに至っては、先の大戦の過ちを忘却し、繰り返す行為に加担しているわけで、先輩記者たちの思いを無にして何とも思わないのかと言いたいほど。道徳教育の強化も歴史を見るとわかるように、道徳の必要な者たちが支配する時代に見られる動きであり、現代はそれだけ由々しき状態と言える。
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