政談270
【荻生徂徠『政談』】270
(承前) さて、右に述べたように下の人を使うにあたり、その役職にうまくはまる時は、賢才の人であればすぐにそれが発揮される。愚かな人はいつも才智は同じと思うのは、道理を知らないからである。使っている下の人の才智が急に顕われるわけではないが、その職分全体によくはまっていれば、才智は必ず湧き出るものである。聖人の教えに忠信・忠恕(ちゅうじょ)を大切にしているのはこのことである。忠とは、その事に身を入れて打ち込むことをいう。このようにすればその人の才智は必ず発揮されることから、聖人の道は忠を尊ぶのである。但し、実用一点張りということではなく、賞翫するという作用もある。聖賢の教えは、何事も何事も、すべて治国平天下(ちこくへいてんか)の道理に叶っている。
[語釈]●聖人の教えに忠信・忠恕 「忠信」は『論語』の学而(がくじ)篇および衛霊公(えいれいこう)篇に、「忠恕」は同じく里仁(りじん)篇にある。「忠」は心の中にいつわりがなく、何事にも真心を持ち、誠実であること。後世、そして現代では主君に尽くす忠義・忠君愛国といった意味で使われることが多く、時代劇でも家来たちが勇ましく主君への忠義を尽くすといったことで「忠」を掲げるが、本来はそのような上下関係・主従関係を縛る徳目ではなく、あくまで自分の心の状態、あり方を意味する言葉。徂徠もその意味で使っている。
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