政談266

【荻生徂徠『政談』】266

(承前) しかるに下の人に物を言わせぬようにするのは、天道に対して畏れ多いことである。その上、人を使う道を知らない。人を知ることは、老中・番頭(ばんがしら)以上の職分の最も重要なことであり、これを知らないのは尸位素餐の罪を免れない。これは自分の職分の重さを理解しないため、御政務には自分の才智を出すのが自分の職分上の務めと理解し、この結果、上から一方的に才智を出せば、下の人は才智を出せなくなる。前に述べた「和して同ぜず」という論語の本文が聖賢の奥義であることを理解せず、下の人と意見の衝突をし、これがために上の威光に押されて下の人は才智を引っ込めてしまう。上たる人が下の人と才智を争うのは、これは上たる人に泰然とする姿勢がなく、まるで若輩者の態度である。上の人が自分の意見を出さず下の人を育てるのは、決して上の人が無智なのではないのだから、そのように思われようとも気にする必要はない。


[語釈]●尸位素餐 しいそさん。尸位は祖先を祭る際、人が仮に神霊の位につくこと。素餐はただ食べるだけ。合わせて、高位に居ながらなすべきことをせず、ただ俸禄をもらって安穏としていること。無能な高位高官を指す。『漢書』朱雲伝(しゅうんでん)に「今、朝廷の大臣、上は主を匡(ただ)す能(あた)わず、下は以て民を益するなし。皆、尸位素餐なり」とある。朝廷の大臣たちは主君の誤った言動を矯正することもせず、人民に対して善政により利益をもたらすこともしない。これでは無駄メシ食らいのお飾りである、と痛烈に批判している。徂徠は大臣を老中および高級官僚たちになぞらえている。この者たちは自分の考えを部下たちに押し付けるばかりで、部下たちの意見や提案、苦情や悩みを聞こうとしない。これでは部下たちが良い提案を持っていても言うこともできず、結果、部下たちはただ言われたことだけしかやらなくなる。老中たちは黙って従うその姿を「良い家来」(望ましい国民)と評価するが、これはとんでもない考え違いであり、組織、ひいては国全体を駄目にすると将軍吉宗に厳しく迫っている。大臣が無能なのは、結局はお上、つまり将軍が無能であるということになるからである。人を巧く使える者こそが上役にふさわしく、ただのお飾りは無用である。


[余談]尸(シ。かたしろ。しかばね)は動かない死体を表わした字だが、人の体内には三つの「尸」、三尸がいると考えられてきた。


 道教の言い伝えで、60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれた。日本では平安時代に貴族の間で始まり、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。悪事をすれば地獄に落ちる、閻魔さまに舌を抜かれる、といった俗信と同じで、昔の人たちにはこれが自制心として有効に作用した。特に高位高官の者においては悪政を牽制させることにつながった。現代人は心という、形として見ることができず、科学的に完全には説明がつかないものを持っていながら、同じく形に見えず、説明ができない天というものを恐れなくなり、権力者が平気でうそをつき、人々をだまし、政治を私物化して国家国民を追い詰めて平然としている。恐らく、この者たちに言わせれば「天だの三尸は迷信、世迷言だ」と一笑に付すだろう。やりたいことをして、満たされた人生のまま安楽に終えることができるかもしれない。しかし、死後のことはわからないし、後世の評価、評判はもはや自分ではどうすることもできない。武烈天皇は日本書紀で「万に一つもよいことをなされなかった」と大酷評されているが、現政権の指導者がどのように評価されるか。道徳の教科書で自分を美化させているようだが、今はどのようにもできる。死後、そういう教科書を作らせたという事実は消しようがない。今がよければいいという考えほど、自制心を否定するものはない。畏れを知らない者は強いが、いずれ自分に跳ね返る。古人が教訓として残し、伝えてきたことに対しては、特に重責を担う者は謙虚であるべきだ。

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