政談263
【荻生徂徠『政談』】263
(承前) これは戦場だから特別のように思われるが、治世であっても上の人へ物を申し上げることは、さながら虎の前に出るのと同じで、身の危うさは同じである。この事を『三略』には「それ主将の法は務めて英雄の心を攬(と)る」と言っている。昔、北条早雲が『七書』の講義を聞こうとして最初にこの『三略』の一節を聞き、「『七書』をすべて聞く必要はない、すべて分かった」と言って、あとは聞かなかったという。あまりに早合点しすぎであるように思えるが、名将は人を使い人を知る道のほかは軍法など不要であるということを見抜いたのである。
[語釈]●『三略』 さんりゃく。中国古代の兵書。漢の張良が黄石公(こうせきこう)から授かったもので、周の太公望(たいこうぼう)の作と言われるが、後世に関する事が書かれていることから偽書とされる。偽書といっても性格や動機がいろいろあり、完全な創作から、過去に現存したもののそれは失われ、残った断片に加筆されたものまであり、注意が必要。 ●『七書』 しちしょ。武経七書(ぶけいしちしょ)ともいう。中国における兵法の代表的古典とされる以下の七つの兵法書の総称。『孫子』(そんし)『呉子』(ごし)『尉繚子』(うつりょうじ)『六韜』(りくとう)『三略』『司馬法』『李衛公問対』(りえいこうもんたい)。戦争世代がまだ多かった江戸時代前期に盛んに出版された。冨山房(ふざんぼう)の『漢文大系』第13巻に『列子』と合巻の形で全種類所収。『国訳漢文大成』も『七書』として全種類所収(原文と書き下し文、語釈のみ)。明治書院の『新釈漢文大系』には『孫子』と『呉子』が第36巻に合巻の形で全訳本として収められている。明徳出版社の『中国古典新書』にも『孫子』と『呉子』がそれぞれ独立して全文が収録(同新書は大半が摘録)されているほか、『孫子』は岩波文庫、中公文庫をはじめ、戦前から無数に出版されている。
[解説]戦国時代から江戸時代前期は兵書がとても流行り、今でも古書店で古い版本が売られているほど大量に出版された。時代が古いのに比較的安価なのは、兵書であること、武家用の硬い書物であることから、多くが残っている一方、絵入りの庶民用の書物のように大変な需要があるわけではないことから、初摺りで状態がよいものとか、元の持ち主が高名な蔵書家(身分、職業はさまざま)でその印が捺してあるといった毛並みのよいものはとても高額だが、それ以外は七書の完揃いでもない限りは手に入りやすい。だからといって必要のない人が読めないのに買う必要はないし、大切にして更に後世に伝えてくれる人が所蔵すべきであることは言うまでもない。戦国武将の北条早雲が、『三略』の冒頭の「夫れ主将の法は、務めて英雄の心を攬り、有功を賞禄し、志を衆に通ず」とい一節を聞いただけで兵法の極意を悟り、以下は聞く必要はないといったのは有名な話。項羽が「文字は名前だけ書ければよい」といったのに通じるものがある。だから項羽は負けたのだ、とよく皮肉を込めて言われるが。なお、本書は柔術の極意「柔能く剛を制す」の出典でもある。
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