政談262
【荻生徂徠『政談』】262
(承前) 加藤清正の家来に飯田覚兵衛という武功の者がいた。初めは角兵衛と「つの」という字を書いていたが、太閤の上意に「おぼえという字を書け」とあったことから覚という字に改めた。この者が言うには、「我が人生は清正にだまされた。最初警護をしていた時、ちょっとその場を離れたところ、仲間たちが皆鉄砲に当たり、矢に当たって死んでしまった。さてもさても危ないことであった。もはや武士の奉公はこれまでにして辞めようと思い、戻ったところ、すさかず清正が拙者を呼び、「今日の働きは大変立派であった」といって、刀を賜った。このように毎度その場を去っては後悔するものの、清正は常に時節を逃さず、陣羽織や加増、感謝状を与え、仲間たちも口々に賛嘆するため、引き籠ることもできず、采配を振るい、侍大将と言われるほどの地位になったのは、清正にだまされて本意を失ったからである」と。この者、清正の世子忠広が没落した後、京へ引き籠って再び奉公することはなく、安楽に余生を過ごしている時にこのように語ってくれた、と古老が語っていた。
[語釈]●加藤忠広
慶長6年(1601年)、加藤清正の三男として生まれる。兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世したため、世子となる。16年、清正が死去したため跡を継ぐ。11歳の若年であったため、江戸幕府は加藤家に対して9か条からなる掟書を示し、「水俣城、宇土城、矢部城の廃止」「未進の年貢の破棄」「家臣に課せられる役儀の半減(役儀にかかる経費の削減、ひいてはその費用の百姓への転嫁を抑制する)」「支城主の人事と重臣の知行割は幕府が行う」ことを継承の条件とした。後に一国一城制によって、鷹ノ原城、内牧城、佐敷城の廃止も命じられ、最終的には熊本城と麦島城だけの存続が許された。藩政は重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたと言われている。支城の廃止と人事の幕府による掌握および合議制の導入は、清正時代に重臣が支城主として半独立的な権力を持っていたのを規制する意図があったと考えられている。しかし、年若い忠広には家臣団を完全に掌握することができず、牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱したと言われている。また、同じ九州の小倉藩を領していた細川忠興は周辺大名の情報収集に努めており、忠広の行状を「狂気」と断じて警戒していた。寛永9年(1632年)5月22日、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなった。その後、出羽国丸岡に1代限りの1万石を与えられ、母・正応院や側室、乳母、女官、20名の家臣とともに50人の一行で江戸を立ち(細川忠興書状)、肥後に残していた祖母(正応院の母)も呼び寄せて、丸岡で22年間の余生を過ごした。丸岡は堪忍領であり、年貢の取立てなどは庄内藩の代官が行ったので、配所に赴いた家臣20名はもっぱら忠広の身辺に仕えた。忠広は、文学や音曲に親しみ、書をしたり、和歌を詠んだり、金峯神社参拝や水浴びなどをしたり、かなり自由な生活の様子が諸史料に見える。配流の道中に始めた歌日記1年余の319首を『塵躰和歌集』に編んでいる。20年を過ごした慶安4年(1651年)6月に母が没し、2年後の承応2年(1653年)に忠広本人も死去した。享年53。遺骸は忠広の遺言が聞き届けられ、屋敷に土葬してあった母・正応院の遺骸と共に本住寺(現・山形県鶴岡市)に葬られ、墓も並んで造られた。家臣の加藤主水は剃髪をし僧侶となり、忠広の墓守になった。遺臣のうち希望した6人が庄内藩に召抱えられ、その子孫は幕末まで庄内藩に仕えた。徂徠は古老の話として、忠広が京に引き籠って余生を過ごしたとしているが、そのような事実はない。
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