政談259
【荻生徂徠『政談』】259
(承前) 総じて人に指図をして使うことは、悪しきことの第一である。何も起きていない時に、利発な大将が下の人に指図して使えば、世間の目には立派な大将のように映るが、これは下の人に才智をつける機会を奪っているのであり、このため下の人たちは「あほう」になる。その大将が生きているうちはよいように見えるが、死んでしまうとにわかに火の消えたような状態になるものである。ことに乱世の時には、一日二日、ないしは十日も各地へ遣わすことから、一々指図はできない。ことに軍(いくさ)は思わぬ変事が起こるものであり、遠方からの指図は間に合わない。しかるに、常に人を指示して使うと、下の人は指示されてから動く習慣がつき、才智を働かす必要がなくなる。このため、泰平の世から乱世に移る時は、必ず乱を起こした方に勝算があることは、歴代の世みな同じである。これはつまり、泰平の世では上が自分の好きな者ばかりを使うようになり、下の人が自分で考えず上の言いなりになる悪い癖がつくようになるからである。ここの境目をよく理解し、下の人に自分から進んで働くように人を使うべきである。
[解説]徂徠のこの言葉を読み、ひるがえって今の政治を見るに、長嘆息するばかり。今の政権、そして財界をはじめさまざまな組織は、威勢のいいトップが鼻息荒く威張り、仕事だけでなく暮らし、人生の細部にいたるまで干渉し、指図する(よい国民、よい社員とはこういうものという見本を示して、型にはめる)。この結果、部下や従業員はただもう左遷や解雇されないことばかり、上の者からにらまれないよう顔色をうかがうことばかりとなる。結果、言われたことだけをやるようになる。しかも、それが理不尽なものでも甘受。過労死しても自己責任といった空気を流すことで、世間常識化してしまう。官僚は優秀なのに、どうして改竄までやらかしてしまうのか、といった疑問を持ってしまうが、なんのことはない、徂徠が言うように「あほう」になってしまうほうが楽だからである。組織に抗い、上の者、特に「最高責任者」に直諫しようものなら、側近によってつぶされる。もし、直諫できたとしても、全く良心の呵責も自責の念も情すらもない者には、自分がなぜ諫言されているのかが理解できず、逆にその者を逆恨みする。こうなると、何も言わず、逆らわず、目立たないようにしたほうがよい、と立派な人でも思うようになる。本当に人を育て、有為な人をどんどん取り立てて、国家国民のために役立てようと思う人なら、人をつぶすようなことはしない。現政権は有為な人をつぶし、そのような人の活躍の場を作らせず、身内だけで権力の座を占有する。組織全体が日増しに劣化の度合いが進むのも当然である。政治は私させてはならない。そのためには、上の者が自分の身内やイエスマンばかりを部下として揃えることがないようにしなければならない。
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