1898年6月30日

1898年6月30日 明治31年

【内 閣】

総理 伊藤博文(第3次)=本日総辞職/外務 西徳二郎/内務 芳川顕正 /大蔵 井上馨/陸軍 桂太郎/海軍 西郷従道/司法 曾禰荒助/文部 外山正一/農商務 金子堅太郎/逓信 末松謙澄 /班列 黒田清隆

内閣書記官長 鮫島武之助/法制局長官 梅謙次郎(内閣恩給局長兼任)

【元 老】

黒田清隆 伊藤博文 山県有朋

【東 京】

府知事 岡部長職

【内 閣】

総理 大隈重信 憲政党(旧進歩党系)伯爵 外務大臣兼任/外務 大隈重信(兼任)/内務 板垣退助 憲政党(旧自由党系)伯爵/大蔵 松田正久衆議院 憲政党(旧自由党系)初入閣 /陸軍 桂太郎 陸軍大将 子爵 留任/海軍 西郷従道 貴族院 元帥 海軍大将 陸軍中将 伯爵 留任/司法 大東義徹 衆議院 憲政党(旧進歩党系)初入閣/文部 尾崎行雄 衆議院 憲政党(旧進歩党系)初入閣/農商務 大石正巳 憲政党(旧自由党系)初入閣/逓信 林有造 衆議院 憲政党(旧自由党系)初入閣

内閣書記官長 鮫島武之助/法制局長官 梅謙次郎(内閣恩給局長兼任)

第1次大隈内閣成立。前外務大臣兼農商務大臣の大隈重信が第8代内閣総理大臣に任命され、1898年(明治31年)6月30日から1898年(明治31年)11月8日まで続いた。与党となった憲政党のうち、旧進歩党系の大隈を首相に、旧自由党系の板垣退助を特に内務大臣に迎えて組織したため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣(わいはんないかく)ともいう。日本史上初の政党内閣。

第3次伊藤内閣が伊藤博文の政党組織準備(のちの立憲政友会)のために総辞職し、元老が議会勢力に妥協した結果、当時衆議院第一党であった憲政党の首班大隈と板垣に大命が降下して組閣された。首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠くが、軍部大臣以外を政党人によって固めたという点では、日本史上初の政党内閣であるといえる。また、爵位を持つ者には衆議院議員の被選挙権がなく、大隈は維新以来の功労で伯爵となっていたため衆議院議員に立候補できなかった。この首相奏推の元老会議は御前会議として行われ、お通夜のような雰囲気の中、明治天皇は「本当に大丈夫なのか」と何度も念を押したと語り草になっている。実際に寄合所帯の憲政党内部では、旧進歩党系と旧自由党系の軋轢が強く、自由党系が求めていた星亨の外相任命を大隈が拒んで自ら兼務を続けたことに加え、文相尾崎行雄の共和演説事件による罷免をめぐり後任人事が両者間で紛糾し、星らによる憲政党の分裂騒ぎに発展した。そして代議士が大臣だけでなく省庁の次官・局長の地位までも占めたために、行政は大混乱した(所謂「キャリア官僚」制度はこの反省により生まれた)。またアメリカのハワイ併合に対して、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた。そして組閣後4ヶ月余りで総辞職を余儀なくされた。

過去の出来事

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