1940年6月29日

1940年6月29日 昭和15年

【内 閣】

総理 米内光政/外務 有田八郎/内務 児玉秀雄/大蔵 桜内幸雄/陸軍 畑俊六/海軍 吉田善吾/司法 木村尚達/文部 松浦鎮次郎/農林 島田俊雄/商工 藤原銀次郎/逓信 勝正憲/鉄道 松野鶴平/拓務 小磯国昭/厚生 吉田茂/内閣書記官長 石渡荘太郎/法制局長官 広瀬久忠

【元 老】

西園寺公望

【宮中主要官】

内大臣 木戸幸一/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 原嘉道/枢密院副議長 鈴木貫太郎

【軍部高官】

[陸 軍]

陸軍次官 阿南惟幾/軍務局長 武藤章/参謀総長 杉山元/参謀次長 沢田茂/教育総監 山田乙三

[海 軍]

海軍次官 豊田貞次郎/軍令部総長 伏見宮博恭

【植民地高官】

朝鮮総督 南次郎/台湾総督 小林躋造/関東長官 梅津美治郎/樺太庁長官 棟居俊一/南洋庁長官 近藤駿介

【東京】

府知事 岡田周造/市長 大久保留次郎


スイスの画家クレー(Paul Klee)死去。


最初の知的障害児対象の独立学校である大阪市立思斉学校創設される。

大阪府立思斉支援学校(おおさかふりつ しせいしえんがっこう)は、大阪府大阪市旭区大宮五丁目にある公立特別支援学校。小学部・中学部・高等部を設置している。日本初の知的障害児を対象にした養護学校として、1940年に開校した。当初は小学校だったが、1952年に同一敷地に中学校を併設したのち、1957年に養護学校へと改編した。当初は大阪市立だったが、2016年より大阪府に移管された。校名の「思斉」は、特殊教育(当時の名称)を実施する学校にふさわしい名称として、論語の里仁篇から選定された。

大阪市では大正時代から昭和時代初期にかけて、大阪府天王寺師範学校教諭・天王寺師範学校附属小学校訓導や大阪市視学を歴任した鈴木治太郎を中心に「学業不振児」(知的障害児)に関する研究がおこなわれた。1939年には大阪市が「大阪市に於ける学業不振児の調査」をまとめている。研究成果を元にして、1940年に教育勅語発布50周年記念事業の一環として、知的障害児を対象とした学校・大阪市立思斉学校が設立されることになった。1940年6月29日付で東区(現・天王寺区)真田山公園内にあった大阪市立児童教育相談所に大阪市立思斉学校が併設され、同年9月2日付で開校した。当時の法令には障害児を対象とした学校の規定はなく、小学校に準じる課程を持つ各種学校として位置づけられた。1941年には国民学校令が施行された。国民学校令施行規則では、特別養護の必要がある者を対象にした学級や学校を設置することも法令上認められた。このため従来の思斉学校は国民学校に改編されることになり、大阪市立思斉国民学校と称した。1943年には旭区豊里町1758番地(当時の住所表示)の現在地へと移転している。現在地への移転前後から、学校側では校外学舎を設置しての集団教育を構想し、泉北郡南池田村(現在の和泉市)に光明寮を設置した。折しも太平洋戦争の戦局悪化により、大阪市内の国民学校児童に対して学童疎開が指示された。このため1945年4月以降、光明寮への学童集団疎開を実施する形で教育活動をおこなった。光明寮は終戦後の1946年11月4日に閉鎖されている。1947年の学制改革により、大阪市立思斉小学校に改編された。また1949年には思斉小学校内に、知的障害児を教育対象とする大阪市立大宮中学校分校が設置された。大宮中学校分校は1952年に大阪市立思斉中学校として独立した。1957年には大阪市立思斉小学校・中学校を統合改編し、大阪市立思斉養護学校となった。養護学校発足当初は小学部・中学部を設置していたが、1964年には高等部も併設している。学校教育法改定による特別支援教育制度の導入(2007年)により、大阪市立の障害児教育関連諸学校は2009年4月1日付で特別支援学校へと一斉に改称されることになった。これに伴い同日付で大阪市立思斉特別支援学校へと改称した。大阪市立特別支援学校全校が大阪府に移管されることになったことに伴い、2016年4月1日付で大阪府立思斉支援学校へと改称した。


日本銀行、台湾商工銀行(非取引先)に対し、米穀供出関係資金特別融通を承認。

仏印(フランス領インドシナ)・中国間輸送停止状況監視団ハノイに到着(首班 西原少将)。


有田外相、「国際情勢と帝国の立場」と題し放送、陸軍側より問題化される。

昭和十五年六月二十九日放送

我が国建国以来の理想は万邦をして各々其の所を得しむるに在ります。我外交方針も亦此の理想に基づくものでありまして之が為には時に国運を賭して戦うことすらも敢えて辞せなかったのであります。

凡そ世界平和の確立は人類の渇仰する所でありますが其の世界平和なるものは万邦各々其の所を得るに非ざれば、永続性なきことは言を俟たないのであります。しかし此の意味に於ける世界平和の確立は人類進歩の現段階に於いて遺憾乍ら一挙にして達成し難いものがあるのであります。故に、この大理想を実現する為には地理的、人種的、文化的、経済的に密接なる関係にある諸民族が共存共栄の分野を作り先ずその範囲内に於ける平和と秩序とを確立すると共に他の分野との間にも共存共栄の関係を樹立することが最も自然な順序であろうと考えるのであります。

而して人類葛藤の原因が概ね斯かる自然的建設的体制を顧みようともせず又去来の不合理不公正に修正を加えようともしないことに存することは、世界が過去に於いて又現在に於いて経験して居る実情でありまして今次欧州戦争の勃発に鑑み持にこの感を深くする次第であります。従って国際平和を恒久的基礎の上に確立致しまする為には凡ゆる努力を以て斯くの如き過誤を是正せねばならないのであります。帝国が東亜新秩序の建設に向かって邁進致して居りますのも以上の精神に基づくものであります。(中略)東亜の諸国と南洋諸地方とは地理的にも、歴史的にも、民族的にもはたまた経済的にも極めて密接なる関係にありまして互いに相倚り相扶け有無相通して共存共栄の実を挙げ、以て平和と繁栄とを増進すべき自然の運命を有するのであります。故に之等の地域を一括して共存の関係に立つ一分野と為し、その安定を図ることが当然の帰結と思われるのであります。

斯くの如く部分的に公正なる平和を建設し、之を集大成して世界全般の公正なる平和を建設せんとする考えは欧米諸国に於いても存するのであります。

而して此の思想は夫々の分野に於ける安定勢力を予想するものでありまして斯かる勢力を中心と致しまして其の分野内に於ける諸民族が共存共栄と安定とを確保すると同時に、各分野は他の分野の政治的文化的及び経済的特色を尊重し有無相通し而も互いに相侵さず協力することを以て其の内容とするものであります。

今次欧州戦争が勃発致しまするや、帝国政府は不介入の方針を闡明し欧州戦争に介入せざると共に戦禍の東亜方面に波及するを欲せざることを明らかに致しましたが、自然帝国としては欧米諸国が東亜方面の安定を紊すに至るが如き事なきを期待するものであります。

今や帝国は東亜新秩序の建設に邁進して居りますると共に、今次欧州戦争の成行特に南洋を含む東亜の諸地域に及ぼす影響に付ては常に深甚なる注意を払いつつあるものでありまして、此等諸地方に付き齎さるることあるべき運命に対しましては東亜の安定勢力たる帝国の使命と責任とに顧みまして重大なる関心を有するものである事を言明して置きます。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。