政談253

【荻生徂徠『政談』】253

(承前) 『論語』のこの章は、朱子の註解は大いに違っている。『左伝』の本文にその理由が詳しく述べられている。この道理は古の聖人の道であることから、人を使う道は、たとえ主君の気持ちとどれほど違っていようが、一切指図をせず、その人の思うとおりに働かせてみて、その人の器量を知ることである。その上で功ある者を賞し、功なき者を退ける。但し、「小過を赦して賢才を挙げる」のも聖人の道であり、小過を咎めれば、その人は委縮して小過がないようにとそのことばかり思いつめ、才智も縮んで働かなくなり、精一杯力を発揮することができなくなる。そのような状態では、その人の器量は分からなくなる。ゆえに孔子が「小過を赦す」と言われたのは、その人の才を存分に発揮させるためである。愚かな人は、少しも過ちをしないのが器量であるとするのは、とんでもない戯言である。


[語釈]●朱子の註解 『論語集注(ろんごしっちゅう)』。朱子の解釈は、「和」は背く心がないこと、「同」はおもねる心のこととし、その人の心の持ち方の違いであるとする。徂徠はこれを批判し、主君に対する臣下の態度の違いを言っており、つまり組織における心の持ちようであるとしている。主君に人を見る目があれば、面従腹背する臣下はいないが、人を見る目がなく、自分の気に入った者だけ召し抱えると、上辺では忠義面しながら内心ではまったく従わず、その気持ちがやがて国を亡ぼすことになる。いざという時に主君のために尽力しようとしないからである。


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