1705年6月22日

宝永2年6月22日[貞享暦] 1705年8月11日  甲寅  火曜日

【朝  廷】

[天  皇]東山(113代)

[上  皇]霊元(112代)

[関  白]藤原兼煕47

[左大臣]藤原家煕39

[右大臣]藤原輔実37

[内大臣]藤原綱平34(左大将)

[権大納言]藤原伊季46(右大将) 源通誠46 藤原基勝43 藤原通躬38 藤原公全28 藤原家久19 藤原致季23 藤原昭尹27 藤原吉忠17

[権中納言]藤原頼重37 藤原永福49 藤原為経52 藤原雅豊42 藤原経音24 藤原公統38 藤原俊清39 源輔通19 藤原兼香14 藤原隆長34

[参  議]平行豊53(右兵衛督) 藤原康綱51(左衛門督) 藤原実陰45(右中将) 藤原為綱42(左衛門督) 藤原基長31(左中将) 藤原輝光36(左大弁) 藤原定基37(左中将) 藤原公澄36(右中将)

[中  宮]承秋門院(幸子女王)

[典  侍]新崇賢門院(櫛笥賀子)、冷泉経子

[掌  侍]高辻(菅原)長豊の娘

[女  院]新上西門院(藤原(鷹司)房子)


【幕  府】

[将  軍]徳川綱吉(5代)

[老中格]松平美濃守吉保(左近衛権少将)

[老  中]土屋相模守政直 小笠原佐渡守長重 秋元但馬守喬知 稲葉丹後守正通 本多伯耆守正永(西丸付)

[側  衆]安藤信濃守定行 水野飛騨守重矩 水野肥前守忠位 島田丹波守利由 一柳土佐守末礼 溝口摂津守宣就 近藤備中守周章 中川淡路守成慶 保田越前守宗郷 宇津出雲守教信

[側用人]松平右京大夫輝貞 松田志摩守貞直 竹本土佐守長直

[高  家]畠山民部大輔基玄 畠山下総守義寧 京極対馬守高規 大沢右衛門督基隆 大友近江守義孝 織田能登守信門 戸田能登守忠真 中条山城守信実 今川豊五郎範高

[奥高家]織田式部信明 大友孫三郎義閭

[留守居]長田甚右衛門重視 松前伊豆守嘉広 三枝摂津守守相 朝倉藤十郎景行

[西城留守居]佐野豊前守直行

[高  家]畠山民部大輔基玄 畠山下総守義寧 宮原長門守氏義 戸田土佐守忠章 大沢越中守基躬 中条山城守信実

[大目付]折井淡路守正辰 仙石伯耆守久尚 安藤筑後守重玄 横田備中守由松 松平安房守乗邦

[大番頭]戸田土佐守忠章 松平近江守信周

[勘定奉行]萩原彦次郎重秀 久貝忠左衛門正方 戸田備前守安広 中山出雲守時晴

[関東郡代]伊奈半左衛門忠順

[西国郡代]

[美濃郡代]辻六郎左衛門守参

[飛騨郡代]

[町奉行](南) 坪内能登守定鑑 (北) 松野河内守助義

[作事奉行]大島伊勢守義也 曲淵越前守重羽

[普請奉行]甲斐庄喜右衛門正永 水野権十郎忠順 三枝左兵衛守繁

[小普請奉行]布施長門守正房 間宮播磨守信明

 [小普請]座光寺作左衛門為泰 座光寺清右衛門為長

[鎗奉行]大久保勘三郎忠行

[長崎奉行]永井讃岐守直允 別所播磨守常治 石尾阿波守氏信 佐久間安芸守信就

[奈良奉行]

[山田奉行]堀利喬

[駿府城代]青山幸豊

[駿府町奉行]水野小左衛門守美

[堺奉行]天野重義

[佐渡奉行]荻原重秀

[京都町奉行](東町)安藤次行 (西町)水谷勝阜

[仙洞付]荒木十左衛門政羽 山田三大夫真周

[大坂定番](京橋口定番)松平縫殿頭乗成 (玉造口定番)渡辺備中守基綱

[大坂加番]堀左京亮直利、酒井石見守忠予、酒井隼人正忠胤、内藤式部少輔正友 京極主殿高之

[大坂城目付]馬場宮内尚恒 渥美九郎兵衛友延

[大坂町奉行](東町)太田甲斐守好敬 (西町) 大久保大隅守忠香

[大坂船手頭]松平孫大夫重矩

[伏見奉行]

[堺奉行]天野伝四郎富重

[山田奉行]長谷川周防守勝知

[奈良奉行]

[下田奉行]山口勘兵衛直之

[駿府城代]青山幸豊

 [目付]中坊長左衛門秀広 三島清左衛門政興

[駿府町奉行]鈴木兵九郎重視 水野小左衛門守美

[長崎町奉行]丹羽遠江守長守

[佐渡奉行]荻原重秀

[昵  近]松平右京大夫輝貞

[若年寄]加藤越中守明英 井上大和守正岑 稲垣対馬守重富 永井伊賀守直敬

[書院番組頭]三枝左兵衛守繁 京極主計高久

[書院番頭]松平式部少輔忠明 酒井紀伊守忠助 本多因幡守忠能 岡野伊豆守成勝

[書院番]朝倉外記豊寿 岡田新八郎利祐 水野甚五右衛門守房

[新番頭]三枝日向守守清 酒井小平次忠隆 土屋頼母茂直

[新  番]杉藤蔵繁孝

[小姓組番頭]稲葉紀伊守正辰 松平壱岐好乗 伊沢播磨守正久 内藤越前守正興 川勝能登守隆尚 島田十兵衛政辰 曲淵市兵衛軌隆

[小姓組与頭]仁賀保孫九郎誠信 堀助右衛門親行 前田半右衛門勝識 牧野八大夫貴成 松平源大夫定隆

[小姓組]桑山源七郎一規 大橋与惣右衛門親宗 土屋長三郎正克 渡辺内記永倫 成瀬吉右衛門正起 仁賀保内記誠方 角南主馬国通 松平内膳正直知 小出主膳英雄 金田能登守正明 松平藤兵衛正房 小堀大膳政房 川勝刑部広豊 久松内記某 大河内十大夫信政 山名信濃守泰豊 水野播磨守忠位 柴田三左衛門勝富 八木主税助正周

[中奥小姓]松平大膳光規 藤堂源五郎良端 山田十大夫豊重 松平内膳正宗長

[小納戸頭]

 [小納戸]

[廊下番]保田忠右衛門久重 住吉内蔵允広保

[百人組頭]伏見主水為信 成瀬吉右衛門正起

[持弓頭]前田孫八郎定相 柘植五大夫正信 平岩若狭守親庸

[持筒頭]大森三次郎頼隆 松平半左衛門忠勝

[徒  頭]渡辺半兵衛輝 小泉兵庫養正 加藤右近明教 土岐内記定武 服部久右衛門常方 牧野伝蔵成煕 丹羽権兵衛氏右 大岡市十郎忠相 井戸新兵衛弘宰 松平権之助信錦 松平伝左衛門正辰

[表右筆]大塚太左衛門光広 大竹源四郎信政

[儒  者]林大学頭信篤 林七三郎信充 林百助信智

[奥  医]井関正伯祐甫 竹田法印定快 依田陽徳院某 菅谷長順玄鳳 谷辺寿仙院忠焉 木村謙庵季益 村田長庵昌伯 佐合益庵宗諄 薬師寺宗仙院元常 奥山謙徳院立庵 中村玄悦兼照 吉田一庵宗貞 小島昌怡維和 小森西倫頼英 古田休甫従真

[御台所用人]高木甚右衛門元茂

[目  付]桑山三郎左衛門玄道 駒木根長次郎政方 三好勘之丞長広 戸田喜右衛門忠位 丸毛五郎兵衛利雄 長崎半左衛門元仲 松田善右衛門勝広 平岡市右衛門資明 坪内覚左衛門定常 鈴木伊兵衛直武 大岡五郎右衛門清相 戸田七内政峯 筒井治左衛門義勝 根来平左衛門長安

[使  番]三島清左衛門政興 仁木甚五兵衛守豊 安部小十郎信方 岡部庄左衛門重矩 戸川内蔵助安明 村瀬伊左衛門房矩 天野弥五右衛門昌孚 伏見主水為信 成瀬吉右衛門正起 渥美九郎兵衛友延

[先手頭]佐野与八郎政信 中川勘三郎忠雄 蔭山数馬親広 中山勘解由直房 高林弥一郎利之成瀬滝右衛門重章 近藤源兵衛用久 佐久間小左衛門信房 加々爪次郎右衛門信全 雨宮近江守正長 布施孫兵衛重俊 浅野伊左衛門正氏 鈴木三郎九郎重祐 前島太郎右衛門重命

[小十人頭]杉浦弥市郎貞宣 曽雌権右衛門定勇 丸毛勘右衛門利貞 戸田三郎兵衛忠常 平野九左衛門長喜

[小十人組頭]曽雌権右衛門定勇

[徒  頭]中山権左衛門勝尋 三枝十兵衛守繁 永井喜右衛門直又

[盗賊考察]坪内源五郎定鑑 平岩若狭守親庸(兼)

[火賊考察]佐野与八郎政信(兼)

[天主教考察]松前伊豆守嘉広(兼) 横田備中守由松(兼)

[日光山巡察]松田善右衛門勝(兼)

[船手頭]向井将監正盛 向井伊織正員 大河内又十郎政直 天野佐左衛門雄正

[火消役]皆川宮内広逵

[寄  合]土岐出羽守頼晴 松平久馬助政森 戸田周防守忠春 越智下総守清武 藤枝若狭守方教 山口兵庫直安 岡部源太左衛門定長 津田外記正房 諏訪主殿頼秋 諏訪伊織頼安 瓦林源右衛門嘉久 瓦林清右衛門良中 佐野豊前守直行 興津能登守忠間 上田周防守重則 中根壱岐守正冬 藤懸信濃守永次 小出内記英輝 上杉采女義陣 小出山城守有仍

[二丸留守居]矢橋伝左衛門重信

[二丸大番]大谷木十左衛門季貞 鈴木五郎作某 山崎金左衛門弘矩

[三丸用人]堀筑後守秀雪

[御台所用人]高木甚右衛門元茂 朝比奈孫兵衛信久

[西城奥番頭]間部越前守詮房 町野筑後守三安

[西城裏門番頭]小栗五大夫忠珍 松波六右衛門重房 山田太左衛門信隆

[西城昵近]戸田大炊頭忠利

[西城御側]井上遠江守正長 青山備前守秘成 大久保長門守教寛

[西城小姓]稲生安房守英正 曲淵下野守景衡 間部隠岐守詮之 建部志摩守広明 石川助之進保和

      村上因幡守正邦 間部中務少輔銓衡 村上市正正直

[西城桐間番組頭]末高半左衛門政峯 折井五郎七郎正職 織部甚右衛門広次 羽太清左衛門正次 千葉兵部季佐 長野次左衛門広門

[西城焼火間番頭]菅沼図書正直 神田弥右衛門正秀 小林七郎右衛門正秀 窪田勘右衛門正良 井藤平四郎忠実・川村権七一親

[西城広敷用人]堀源佐衛門正勝 早川勝七郎重好

[西城小納戸]鈴木百助自興 細井藤左衛門安定 南条右衛門宗益 間部主膳詮貞 竹田源次郎忠雄

北川長十郎某

[西城奥医]山田立長敬元 須磨良川某(針医)

[西城尚薬]奥山謙徳院玄起(兼) 同立庵某 山田立長敬元(兼)

[元方納戸頭]新見彦四郎正知

[払方納戸頭]上田新四郎政方

[腰物奉行]黒沢杢之助定当

[小石川御殿奉行]松崎善兵衛良時

[廊下番組頭]木原七郎兵衛清白

[桐間番組頭]早川平四郎定基

 [桐間番頭]前田大隅守定相

 [桐間番]山崎長巴信福 島弥左衛門正方

[表右筆]大塚太左衛門光広 大竹源四郎信政

[瞽  者]三島惣撿挍安一

[幕奉行]加藤久大夫景次

[奏者番]本多弾正少弼忠晴 石川能登守乗紀 池田丹波守輝録 松平弾正忠久 三宅備前守康雄 久世出雲守重之 安藤長門守信友 土井式部少輔利意 水野監物忠之 松平宮内少輔忠尚

[寺社奉行]本多弾正少弼忠晴 三宅備前守康雄(兼) 久世出雲守重之(兼)

[京都所司代]松平紀伊守信庸

[大坂城代]土岐伊予守頼隆


桂昌院薨去。群臣、執政に拝謁し弔問。桂昌院の遺骸を増上寺に納めることとし、秋元但馬守喬知・少老井上大和守正岑・作事奉行曲淵越前守重羽・小普請奉行間宮播磨守信明及び寺社奉行久世讃岐守重之・留守居松前伊豆守嘉広・勘定奉行戸川日向守安広に命じ、松平周防守康員・有馬大吉寿純・松平采女正定基・三浦壱岐守明敏は辻固、黒田甲斐守長重は山門、遠山和泉守友春は表門、松平縫殿頭乗真は裏門、戸田淡路守氏成は本堂裏口の警護に指名。本日より営築7日、音楽16日停廃とする。


桂昌院(けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。通称は玉。『徳川実紀』によれば、父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正。母は鍋田氏。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。京都の大徳寺付近で産まれる。『徳川実紀』によれば、父は関白・二条光平の家司である北小路(本庄)太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。桂昌院と同時代の人物の記録では、朝日重章の日記『鸚鵡籠中記』に、従一位の官位を賜ったときに西陣織屋の娘であるという落首があったことが記されており、また戸田茂睡の『御当代記』に畳屋の娘という説が記されている。黒川道祐の『遠碧軒記』人倫部は二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた娘とする。死後やや経ってからの『元正間記』には大根売りの妹、さらに後の時代の『玉輿記』には、父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正という説が記されている。寛永16年(1639年)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となる。正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍・家綱の死後、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜る。宝永2年(1705年)6月に79歳で没。実家の本庄氏は桂昌院の威光により、その一族は高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などの小藩ながら大名として立身出世を果たしている。墓所は東京都港区の増上寺。遺髪塚が寺の復興に貢献した京都府京都市西京区の善峯寺に「桂昌院廟」として存在する。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。