政談250
【荻生徂徠『政談』】250
(承前) このようにいろいろな子細により、自分の目がね、自分の才智で人の器量を知ろうとする方法は必ず誤りがあるものということを知らなければならない。だから、人の器量を知ろうとする時は、その人を使ってみること、これが古来よりの道理である。ただ、使うといってもいろいろな違いがある。人を使ってその人の器量を知るというのは、上の者の好きな人を選ばず、ああしろ、こうしろと指図をせず、その人の思うがままさせてみることである。末世には、利発な大将ほど指図をして人を使うことを好み、「我が心をよく理解している者だ」などと言って寵愛する。これは主君に媚びへつらって寵愛を受けたしたたかな臣であり、真の人才ではない。このように使ってみて、役儀をよく処理していると思うのは、人の器量を使うというのとは全く違う。ただ自分の分身をいくつも作り、諸役人にして働かせるわけだから、上の者一人の智恵を使い、自分のために使っているわけである。
[解説]人を人と思わぬ者ほど、部下や社員に対して求めるのは、自分の思い通りに動き、成果を出すこと。自分の考えを表明したり、あれこれ提案する者など不要。結果、その組織はすべてが上の者の分身であり、排他的になる。たまたま結果が出て業績が上がっても、かならずほころびが生じる。それが過労死だったり自殺だったり、製造日や産地の偽装だったり。無理に無理を重ね、とにかく上の者にほめてもらいたい、それがかなわずとも激しく叱責、罵倒される恐怖だけは味わいたくないからと、顔色ばかり窺う。特に中間の者は板挟み状態となり、我が身かわいさもあって、下の人たちを酷使、虐待する。上の者にはそういうことを隠し、それを知らない上の者は自分の才覚だと慢心し、さらに業績を上げるよう指示する。あるいはそういうことを匂わせ、幹部に忖度させる。すべてが人を人と思わなくなる。徂徠によれば、こうなるのもすべて人材登用の段階から間違っており、上の者の気に入る人ばかり採用すると必ず頽廃することになるという。全くその通りである。下の人たちの思うようにさせ(もちろん法令・内規の遵守は当然たが)、何かあれば上の者が責任を取る。責任者とは本来こうあるべきものだが、昨今は責任ある立場ほど責任をとらず下に押し付ける。しかも、「今後二度と起こらないよう職責を果たす」と豪語して居座り続ける。全体が弛緩し頽廃するのもむべなるかな、だ。
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