政談246
【荻生徂徠『政談』】246
●諸役人に器量を選ぶ事
総じて今の世は諸役ともに器量ある人がいない。これは国家を治める上で大いに憂慮すべきこと。人と法の二つは別にして知ることが必要だが、法は形式であり、それを取り扱うのが人である。人さえ良ければ、法は悪くとも人に器量があるから、法をうまく扱うことができ、国は良く治まる。器量ある人がなければ、いくら法を立派なものにしても、扱う人が未熟なためにその法の本意とは違う解釈・運用をしてしまい、これでは何の役にも立たない。
このため、国を治める道は人を知ることが肝要であり、古の聖人の道もそのように定めてある。されば、人を知るとはどのように知るかというと、その人の言動を一日中注視したからといって、その人の器量は分かるものではない。ところが、愚かな人は「大将の目がね」と言い、名将はひと目見ただけでその人が器量ある人物であることが分かると言う。愚かな人はこれが誠だと思い、自分の眼力で器量ある人を見出だそうとする。そんなことは占いとか神通力でもなければ分かるものではない。
[解説]続いては、いかにして器量ある人物を下から挙用するかについて。
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