政談245
【荻生徂徠『政談』】245
(承前) 旗本の二男三男を御徒・与力・御勘定・御祐筆にしたいというのも、ただ下輩から推薦するということではない。家筋により人事が固定化している現状を打破し、肝心な所は下輩より才智もあり器量もある者を採用し、賞罰を以て人をうまく使うようにしたいものである。少々は目がね違いがあろうともそれは気にせず、どんな者でも器量次第で高官・大禄にもなるという気持ちに世間がなるようにしたいものである。今のように家筋がすべてと固定化されてしまっては、中位より下の人は出世の望みはなく、上に登る道は遠い。こうなってしまうと、下の者は軽薄な気風がみなぎり、下の者の才智も役に立たぬまま埋もれて終わってしまう。
[徂徠逸話]徂徠は繰り返し家筋(家格)にとらわれぬ人事を主張した理由の一つは、自身が特別な処遇を得たこと、更には徂徠を召し抱えた柳沢吉保が軽輩の身から抜擢されて老中にまで出世した現実があるからである。
吉保が将軍綱吉の寵臣としてひいきされ、異例の出世を遂げたことは当時からいろいろ言われ、このような待遇が吉保の評判を悪くする一因になったことは否めない。大半の大名・旗本は家格によって地位が固定化され、どれほど有能な人でも人物評価でランクが上がることはない。そういう体制にあって、将軍に特に気に入られた者だけが大出世するというのは、将軍みずからが体制や家格重視を破ることであり、将軍への信頼を毀損することにもなる。
しかし、毀誉褒貶相半ばするように、吉保は決していわゆる佞臣・奸物ではなく、政治家としては一流といえる。学があり教養もあり、人を見る目があった。市井の一学者に過ぎなかった徂徠を見出だし、召し抱えたおかげで徂徠の才能は埋もれることなく発揮され、日本の思想界に大きな足跡を残すほどになったのだから。
元禄9年に31歳で召し抱えられた徂徠は、俸禄十五人扶持。13年には一挙に200石に加増。200石といえば、小藩なら中級藩士に匹敵する。15年に300石、宝永2年に350石、3年に400石と加増され続けた。家格により俸禄も固定されている時代に、ほぼ1年おきに加増されるのも異例中の異例で、吉保が将軍から次々と加増されているのと軌を一にしている。こうなると、「家筋よりも人物を」と主張するのも当然である。綱吉が薨去し、家宣の代となって綱吉時代の政治を全否定し、これにより吉保は失脚させられたが、失意の人となっても吉保は徂徠を見捨てないばかりか、更に100石を加増している。これは美談として古来称えられている。儒者として500石は最高の部類で、大学者の木下順庵(一門を木門という)・伊藤担庵(たんあん)に並ぶ。
食費はなくても別に気にならない学者にとって、欲しい本一冊買えないのは実にみじめであり、存分な研究もできない。士分(公務員)で儒官(大学教授)という身分があると、本屋は信用でいくらでもツケ払いを認めてくれるし、いい本が入ると真っ先に融通してくれること、更には教授という身分があるとどんな蔵書機関にも入れたり帯出も許されること、当時も今と同じであり、徂徠はこういう境遇になったことをとても喜んだ。それまでは房総の農村で乏しい書物を繰り返し読んで読解力や知識をつけていた苦労があっただけに、幕府や藩の書庫に自由に出入りできるようになった嬉しさは一入だった。
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