政談244

【荻生徂徠『政談』】244

(承前) これらの事はみな太平の世が長く続き、家筋を重視する風潮が極まったからであり、与力は本来は先鋒の役、御徒は将軍近辺を護衛する役ということを忘れ、頭の奴僕(ぬぼく)のように思う有様である。旗本の頭たちも高慢になり、組の配下の者たちを軽視し、およそ五、六十年前と比べて、旗本の人使いも悪くなった。下の者の申し立てで道理のあるものを聞き届けることは少なく、お上の御威光を忖度して下に命じる一方であることを好む。しかし、お上の御威光というのも、実は役人の高慢ぶりから自分の権力を振りかざしているのである。元来、下の者たちの廉恥な気持ちを養うのが古よりの役人たる者の道であり、これは下の者たちに情けない姿を見せぬよう言動を慎むことである。旗本が牢屋に入れられて尋問を受けるということは昔は無かったことなのに、近年はこのような愚か者がいると承知している。人は使い方で良くも悪くもなる。下輩を粗略にあしらえば自分が下輩になるということが分からないようだ。結局、こういったことも家筋を重視するようになったために、自然と風潮として広まってしまったのである。


[解説]頭(かしら。船手頭、書院番頭など)は中間管理職である。部下の意見、発案を聞き、それを仕事に活かしたり、上層部へ提案するなどすれば部下の励みにもなり、組織が活性化する。しかし、泰平が続くと守りに入り、上から睨まれないことばかり気にし、上の意向を忖度し、先回りして部下に命じて威光に叶うことをし、褒めてもらうことばかり考える。この結果、組織全体が上意下達の世界となり、いくら部下に賢才がいても、その才能が発揮されることはなく、埋もれたまま終わる。この段階はまだよい。本来は手本となるべき旗本(高官)が不正や不祥事をしでかし、かつては逮捕され尋問を受ける者などいなかったのが、今(本書執筆時)はそういう者が出ている。これも家筋ばかり重視し、それが固定化して下の優秀な者を挙用することがない結果であるとする。現代は就職が自由で身分もない世とはいえ、特に政治家や高級官僚は多くが門地門閥を形成し、世襲が常態化している。世襲議員や官僚で出藍の誉れと言える者はごくわずか。それでも控えめにし、向上せんと努力するならまだしも、そういうこともせず、悪態をつく者がますます増えている。完全に新たな貴族と化し、その新貴族たちが世の中を牛耳っている。幼少期から恵まれすぎるほどの環境で育てられ、苦労知らず。形だけ他人のメシを食うものの、食わせる側が「いずれは代議士、大臣におなりになられる方だから」と下にも置かぬ優遇をする。本人はそういうお膳立て、特別扱いを知らず、これが世間だと思い、自分は偉いという錯覚をいだくようになる。その結果どういう人物になるか。例を挙げるまでもないだろう。


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