政談241
【荻生徂徠『政談』】241
(承前) 綱吉公の時、旗本の家筋の者を御側として召し抱えたが、いずれの者も精を出して御奉公をせず、期待通りの務めをしなかった。これは、家筋を重視したために人心がいいかげんになったためである。そこで、能役者など下輩の者を召し抱えたならば、低い身分なのに召し出されたことに恐れ入り、恩賞への期待も強いことから、御心に叶う働きをして出世した人も多い。現在は家格重視に戻ってしまったために、いくら精を出しても何の恩賞もない。
とかく下の身分の者を取り立てて使う方が、その者は精を出してよく勤めることは人情である。家筋が固定してしまった世だからである。今は旗本の平役でさえ家筋に固執し、自分と同格の旗本の家へ養子に出すことばかり思い、御徒(おかち)・与力・御祐筆・御勘定などになろうなどとは考えもしない。ましてや自分とは懸け離れた大役にはどれほど精を出し身を入れて勤めても、生涯無理であると諦めているため、ただ自分の身分・地位に応じた気風を大切にし、金を取り、養子に出したり嫁をもらうといった悪しき関係ばかり構築するのも、皆の心がいいかげんになったからである。
[解説]綱吉は気に入った能役者らを廊下番・桐間番などに積極的に採用した。この中から次々と出世する者が出て、中でも間部詮房は次の将軍家宣の側用人として大出世した。また、新たに幕臣に採用された者も多かった。一方、吉宗が即位すると再び家格重視となり、綱吉以降に新規に幕臣となった者は昇進が制限され、新規召し抱えもせず、更には世襲さえ保証しない姿勢を取った。徂徠は2人の将軍それぞれの得失を見究めた上で、家格によらず下の者でも採用すればその意気に感じて仕事に精を出すし、努力すれば必ず上に引上げてもらえるという期待も励みになるのだから、上様(吉宗公)におかれても人材登用は家格で固定化せず、人物本位にすべきことを力説する。吉宗は本来なら紀州の藩主にすらなれない身分だったのが、兄たちが次々と亡くなるなどして藩主、さらには将軍にまでなった。このような“幸運”を思えば家格を重視するのは虫が良すぎると言えるが、吉宗もまた家康を深く敬愛し、世が乱れないためには筋を明確にしてそれを遵守することが大切と心得ていた。人物本位の弊害はえこひいき。綱吉は自分の気に入った者を側近に集めたために、側近政治が行われてしまった。二度とそのようなことを繰り返してはならないという思いが強かったようだ。ただ、大岡忠相らを抜擢して適材適所の組織作りもしており、なにがなんでも家格によるというわけでもなかった。
0コメント