政談236
【荻生徂徠『政談』】236
(承前) 代々大禄・高官の人も、その先祖はいずれも戦国の時に生死の場を潜り抜け、さまざまな難儀に遭ったことから才智が生じ、このおかげで武功を立てて大禄・高官となったが、その子孫は代々大禄・高官で生まれながら高貴な人でなんの難儀もないのだから、才智が生じることがない。位が高く下の人たちと隔絶しているため、下情に疎く、家来に褒めそやされて育てられたので、知恵もないくせに我が知恵を自慢し、生まれながらに人に羨まられる身でこれが当然と思うことから、上の御恩もさほど心に感じ入って有難いと思うこともない。心はおのずからわがままとなり、下を虫けらのように思う。これもまた人情というもので、このようになってゆくのは自然の道理にして、上たる人に生まれながらの才智があっても、この病は免れ難い。たまたま利発な人があっても、下とは雲泥の差、万里ほども隔たっているため、下の情がわからない。身分が高い立場で、殿中の場でのみ下の者に接することから、下の者は常に自分にひれ伏すために下の者とはそういうものだという意識がつのり、そういう目で下の者を見ることから、下の者は愚かだという思いになり、ますます自分は偉いのだと高慢な気持ちが大きくなるのである。
[解説]西郷南洲(隆盛)の有名なことば「児孫の為に美田を買わず」が想起される。苦労をして人生を歩んできた人の常として、子や孫には苦労をさせたくないという気持ちから、自分は贅沢をせずつつましい暮らしで生涯を終えようとも、後に残された者たちに築き上げた財産をそっくり渡して、安穏な人生を送ってもらいたいと思ってしまう。子は父の苦労を目の当たりにしてきただけに多少は有難味を感じ、財産も大切にしようとするが、孫の代になると祖父の苦労は知らず、父から二言目には「おじいさん(ご先祖さま)は立派だった。お前も見習って立派になるように」と言われるために反発心ばかりが起こり、物心ついた時から贅沢な環境にいて、周囲から崇められるために、それが当たり前となる。世間の実状など知ろうとも思わず、たまに下の者と会っても、常に自分が上にいて威張る態度が当然のようになっているために、これもなんとも思わなくなる。結果、自分は偉いのだ、優秀だ、と勝手に思い込み、自分の言うことはなんでも通るし、家来たちがすべてお膳立てをしてくれるから遠慮はいらないとまで思うようになる。西郷が子や孫のために立派な田畑を買い与えない、残さないと言ったのも、苦労知らずでは世間が逆に苦労させられ、それが結局は我が身に返ることが分かっていたからである。では、苦労とは何か。よく、新入社員に例えばトイレ掃除をさせる会社がある。官庁しかり。体験しないよりはしたほうがよいが、普段から自宅のトイレ掃除をしている人は別に何とも思わないし、初めて経験する人はいろんな思いをするものの、これも研修、通過儀礼であり、そつなくこなせばそれで済む、などと要領のいい思いをしてしまうと何にもならない。苦労とはもっと根源的なことで、突発的で、容易に解決しないもののことを言う。ここでよく誤解されることとして、「立派な人材にするために、新人、後進には大いに苦労させたほうがいいのだ。今の連中は苦労を知らぬ」と経営者や成功者が豪語して、理不尽なことでもなんでも受け入れ、上や組織を恨まず、すべて感謝の気持ちで接することを要求する。セクハラやパワハラ、モラハラなどの多くも組織主義に根差していることが多い。これではいつまでも個人が大切にされず、人権意識も高まらず、成功者のみが自由にモノが言えて政治にも参画できる世となる。暴言を吐き続ける政治家や実業家、著名人たちに共通するのが、仲間以外を「下」として見くだすこと。せっかく世の中に貢献できる立場にいるのに、世の中を破壊して悦に入る。実に悪い性格ではないか。
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