政談232
【荻生徂徠『政談』】232
●御旗本諸役人に召し出さるる事
総じて天地の道理は、古いものは次第に消え失せ、新しいものが生じるのが道理の常である。天地の間の一切のものはみな同じ。古いものをいつまでも大切に置いておきたいと思っても、自然の力にはかなわない。材木も古いものは朽ち、五穀も毎年生え変わり、人も年を取れば死に、新しいもの、新しい人に入れ替わる。また、下からだんだんに上になるのも天地の道理。上に登りつめたものは次第に消え失せ、下から入れ替わる。これも理の常で、易の道理もこれである。
しかるに、政治の道は古くて功績のある人の家を大切にして、できるだけその家が続くようにし、また家内の老人、曽祖父母・祖父母・父母など、寿命がいつまでも長く尽きぬようにと祈り、早く死ねとはかりそめにも思わないのが人情の常である。しかし、天地の道理と人情の常とは食い違うもので、いつまでも置いておきたいと思ってもね古いものは消え失せるものである。とはいえ、古いものは早く無くなれというのは悟り過ぎたことで、聖人の道には合致しない。また、古いものをいつまでも抱えおこうするのは愚かなことで、これまた聖人の道に叶わない。聖人の道は人情の道を元とし、人の情を壊さない。始めと終わりがある道理がはっきりと見えて一点の曇りもないから、人情に惑わされることもない。このように人情と道理を均等に保つことが世界の人を治める要訣である。
[解説]徳川幕府は治世の文教政策として、儒学、とりわけ朱子学を奨励した。幕府の官学は朱子学で、儒官も朱子学者。講義は朱子学というように徹底した。のちに寛政異学の禁という触れが出されるが、他の学問を弾圧したわけではない。あくまで官学は朱子学とし、儒官は他の学問(老荘思想など)を教授してはならないとしたまでで、個人的に異学の書を読もうが信奉しようが、それは勝手だった。むしろ、現代のほうが初等教育から道徳というものを通じて精神的な自由を拘束しようする動きが強まっていることに危機感を覚えるほど。それはともかく、こういった当時の方針・趨勢に徂徠も従い、朱子学を猛勉強した。が、極めれば極めるほど疑問な点がいろいろ出てきた。折しも、京都に大儒・伊藤仁斎(=肖像)がおり、仁斎もまた朱子学に異議を呈するようになった。徂徠は仁斎にいたく共鳴し、先輩の大学者にぜひとも教えを乞いたいと懇切丁寧な書簡をしたためて送った。ところが、待てども暮らせども返信が来ない。無視されたと思った徂徠は憤慨し、以後、事あるごとに仁斎を批判した。事実は完全な徂徠の誤解で、仁斎は徂徠の書簡を見た。すぐに返信を出したいと思ったが、この時仁斎は病床にあって危篤状態。とても返事を書いたり口述筆記してもらう状態ではなかった。徂徠がそれを知らないのも無理はない。あとでこれを知り、本来なら自分の早とちりを反省し、改めて仁斎を敬慕し、顕彰するところだが、悪い時には悪いことが重なるもの。仁斎没後の宝永4年、京都で仁斎に関する書物『古学先生碣銘行状』(こがくせんせいけつめいぎょうじょう)が出版されたが、あろうことか、この附録として徂徠の書簡が無断で掲載された。これが徂徠の怒りをエスカレートさせた。これが大きな原因となり、徂徠は朱子学に訣別、反旗を翻した。
朱子学は江戸時代初期には最新の学問で、その根本である理気二元論によって儒教の経典(易・書・詩・礼・春秋)を系統的に解釈(儒学というのは基本的に解釈学)し、万物に遍在する「天理」を以て人間社会の規範たる「道理」を理論的に説明する学説。これが幕藩体制にとって好都合で、宇宙の秩序と社会の秩序は根本的に同一で、士農工商という身分(この身分こそ儒家が説くもの)を守り、封建的な社会秩序に従うことが「天理」に叶うとした。「儒教は身分制度を容認している。差別の元凶だ」と言う人がいるが、政治理念として学問にその根拠を求め、以て規範とすること自体は決して悪いことではない。特に、為政者を縛る規範はむしろ必要であり、士農工商という区別をするからには、士の責任が重くなるのは当然。いま、近隣諸国を憎悪する勢力が台頭し、儒教圏はあたかも悪であるかのように言われている。江戸初期にあっては最先端の理論だったわけだし、幕府が政治を行う上でこれに依拠した姿勢はむしろ評価できる。ただ、依拠したものが実際と乖離したり無理があればそれを是正することも必要で、これこそが為政者としての責任である。
本書執筆時の徂徠は、完全に朱子学とは訣別し、古学といわれる立場で言論を展開していた。朱子学は道徳主義による政治観だが、これではうまくゆかないことを痛感させられる事態がはるか以前に起きた。赤穂浪士による仇討ちである。主君の仇を討つ行為は「忠義」であり、武士としての正義である。武士は主従関係がすべてに優先するから、主君の仇討ちは評価されなければならない。
ところが、幕府(政権)の権威はそれぞれの主従関係よりも上にあるため、仇討ちも幕府の許可制とし、免許状が交付された者のみが許される。赤穂浪士たちはこれを交付されていない。浪士の処分について幕閣で議論されていた時、大勢は「浪士は武士の鑑である」「忠義の士である」と称賛、大名の中には「高禄を以て召し抱えたい」と言う人まで出た。これに異を唱えたのが徂徠。徂徠は幕府の権威(唯一、ご政道を行える存在)保持のため、「許可を得ていない浪士の行為は単なる私闘であり、ご城下において飛び道具まで使って争乱を引き起こしたのだから、幕法によって処罰すべきである」とした上で、「しかし、忠義を実践したことは武士として評価すべきである」とし、本来、浪士は庶民であり、庶民は斬首(打首)となるが、栄誉のために武士として切腹に処するのが妥当であるという意見を具申した。これが採用されたが、実はこの時、徂徠は朱子学の限界を痛感していた。浪士の行為は個人レベルで「義」であるが、その上にある公、国政レベルでは法に背反する。個人道徳と政治とは次元が異なり、これは一致するという朱子学では収拾できないということを知ったわけである。このあとも徂徠は苦悩し、思索を深め、やがて古学に行き着く。皮肉にも、古学こそ敵視する仁斎によって始められた学問であり、徂徠は個人的感情は別にして古学を究めるべく研鑚を積み続ける。
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