政談231

【荻生徂徠『政談』】231

(承前) 与力は昔、公儀入りを願う者を頭(かしら)の一存で与力に入れておき、頃合いを見計らって召し出された者が多い。中頃より「浪人の腰掛所」と言って、高禄だった浪人を正式に任用するまでの間、与力に入れておくことが多かったことから、ひとかどの人物が多かった。今は金になることから、堕落してしまった。また、昔は旗本の二男三男が召し出されたが、近年はこういうこともなくなった。このため二男三男は養子の口があることを狙って与力となるが、そのまま空しく年を取ってしまう類が多い。この者たちを御徒(おかち)・与力・御勘定・御右筆(ごゆうひつ)などに入れて使ってみて、器量ある人を出世させるようにしたいものである。人は生まれつき文武の別がある。身体頑強で武芸を好む者は御徒・与力に向いている。身体が弱くあまり働くことが好きではない者は、毛筆や算術を習わせ、御勘定や御右筆に配属させるのがよい。代官などに同行させて手代の役をさせ、遠くの国を見せ、山や川、いろいろな土地を知り、田舎の中をあちこち歩かせたならば、今のような城下の親元で過保護にぬくぬくと育てられ、世間を知らぬあほうに比べればはるかに勝ることだろう。


[語釈]●御勘定 勘定所の平役人。事務官。 ●御右筆 幕府の秘書官。右は祐で、たすける。貴人に付き従い、記録をしたのが起こり。古来より政治家や官僚の動静、政官界で起きたことは細大漏らさず記録し、後日の証拠とし、後世の人の参考に供した。これを現役の者らが改竄・隠滅するなど、自己否定・自己抹殺の所業であり、それを糾弾しない世の中は末世である。


[解説]家柄によらず、体力に自信のある者は護衛や市中警戒・探索など機動的な職に就け、動くことが好きではない者は武士であっても手に職をつけて室内の仕事をさせるのがよい、と徂徠は言う。その人に合ったものをあてがうほうが意欲もでるし、効率的である。さらに、当時は父が引退したら子が継ぐ完全な世襲制だが、部屋住み(家督相続前の無職状態。これ自体は恥でもなんでもない)の身で大切にしすぎると「あほう」になる、もっと各地を廻らせ、世間の実状を見聞させたほうが使い物になると言うのは、当たっているだけに痛烈である。特に嫡男は大事な跡取りだからと家の中にいることを当然とし、二男以下は穀潰し呼ばわりされて自活を強要される。このため、二男以下の兄弟のほうに立派な者が多く、長男は「総領の甚六」という言葉ができたようにひ弱だったり放蕩に明け暮れたりして、人づきあいもできず、人を馬鹿にする態度をとることも。そこで、まだ見習いのうちに各地へ派遣される代官に帯同させ、手代として働きながら特に農村の実状や農民たちの暮らしや考えに触れさせることを勧めた。いずれ役人になるのだから、民情を知らしめるのは当然で、この点でも徂徠の慧眼ぶりは大したものである。


 「あほう」「あほ」という語は、今は関西弁を代表するものとなっているが、江戸人で学者の徂徠が使っているように、もともとは江戸、関東でも広く使われており、当時では共通語だった。有力な語源として、昔、秦の始皇帝が阿房宮(あぼうきゅう)という大宮殿を作らせた(=想像図)。この宮殿、始皇帝の生前には竣工せず、やがて焼き討ちに遭ったが、燃え尽きるのに3か月もかかったという故事から、呆れた物事を「阿房」(あぼう)と言い(まるで阿房宮のようだ)、これが「あほう」「あほ」になったと言われる。学者や教養ある知識人の間で最初使われだしたものが、やがて世間に広まったとされる。もちろん、もともと方言としてあったのかもしれないが、納得できる意味ではある。今の政治を見るに、やがて「安倍」が新たな言葉として使われるようになるのではないか? 意味や使われ方も「阿房」と大差なかろう。

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