政談230

【荻生徂徠『政談』】230

 ●御徒衆・与力を頭の心儘に入るる事

 御徒衆(おかちしゅう)・与力を頭(かしら)の心儘(こころ(の)まま)に入れることから、町人・百姓あるいは小普請配下の者が金で雇われることになる。金で与力になったり、金で御番衆の養子となる中継ぎとする類が、今はとても多い。もし、戦場要員の募集であれば、このようなことはあるまい。

 御徒(おかち)は元来、譜代の役である。御徒から出世した者も多い。久世三四郎などは御徒より出世した。綱吉公の時、身上が立ち行かぬとして御徒らが申し合わせて願い出てより、御徒は譜代でない者もよいとされ、以後は請状(こいじょう)によって御徒に入れられるようになったが、これはとんでもないことである。公儀が人を召し使うのに、請状を以て許可するとはどういうことか。日本は徳川の国である。何事も幕府において命じるものである。あまりにも役人が不学ゆえに、このようなとんでもないことが起きるのである。


[語釈]●久世三四郎 久世広宣(くぜ ひろのぶ、永禄4年(1561年) - 寛永3年3月19日(1626年4月15日))。安土桃山時代の武将、江戸幕府旗本寄合。久世長宣の子。通称三四郎、三左衛門。16歳の時、家康に父の罪を赦され、大須賀康高率いる「横須賀衆」として、渥美勝吉、坂部広勝らとともに武田勢との戦いに先手組足軽として歴戦、勇名をはせた。康高の没後は松平忠政に属したのち、徳川家康の直参となり、下総・上総国2500石の旗本に取り立てられた。大坂の役に先手頭5000石として従軍した。


[解説]徒士(かち)は隊列を組んで護衛をする役で、足軽とほとんど変わらないが、あくまで正規の武士である。徒士は意外にも昇進の機会が多くあることから、あってはならないことだが、徒士の位(株=権利)がひそかに高値で売買されたほど。役人の位が売買されるのは現代の公務員制度からは想像もできないが、そもそも武士の身分さえ株として売買され、これにより町人や農民も武士になっている(つまり、武士を捨てて町人や農民になる人もいた)。当時は身分制度があるとはいえ、身分間での移動はけっこうあった。4代家綱の時までは徒士は将軍警護の重要な役であり、武術に優れた者が必要なことから譜代の家から任命したが、泰平の世がおよそ100年続こうという綱吉の時代には譜代でない者が次々と新任として採用された。この結果、暮らしが立ち行かなくなった徒士が自身の株を欲しい者に譲渡したり、幕臣として召し抱えられたい者が請状を以て願い出る事態となった。徂徠はこれについて激怒している。日本は徳川家のものであるのだから、幕府が命じた者のみにすべきである、とまで言い切っている。


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